第55話:白銀の嶺と、忍び寄る黒煙
北方の旧魔導研究所跡地を目指し、森羅家の三姉弟は故郷の街をあとにした。
北へ進むにつれて街並みは遠ざかり、いつしか肌を刺すような冷気へと変わっていく。
数日の旅路を経てたどり着いたのは、王国北部に高くそびえる『白嶺山脈』の麓だった。
遠くに見える山々の山頂は白い雪で覆われているが、三人が目指す山腹の森林地帯には、不気味で重苦しい雰囲気が漂っていた。
「ここが、白嶺の麓……。すごく冷え込んできたね」
二葉が息を吐くと、白い塊となって寒空に消えていく。
背中の木剣を背負い直し、胸元に輝くCランクプレートをそっと撫でた。
「うん、でも、この寒さはただの気候によるものだけではないみたい」
三葉が周囲の空間へ視線を走らせる。
「大気中に含まれる魔力粒子が、不自然な冷気と混ざり合って硬化してる。……見て、街道の脇にある樹木を」
三葉が指さした先には、本来なら綺麗な葉を見せるはずが、まるで焦げ付いたかのように黒く変質し、硬直したまま立ち枯れていた。
一葉はそっと歩み寄り、黒く変色した葉に触れようとして手を止めた。
胸元の緑のペンダントが、チリチリとした警戒の微振動を伝えてくる。
父から託されたこの結晶は、自然の調和を乱す人工的な毒素に対して極めて敏感だった。
「ひどい……。王都の『魔力腐敗症』や、サフィールの『黒砂』と同じ匂いがするわ。命の循環が、内側から完全に遮断されている」
「うん。旧魔導研究所の地下に遺された人工魔導炉が、大地の不純物を過剰に吸い上げて暴走し、この黒い毒素を撒き散らしているのは確実だよ」
三葉の分析に、二葉が木剣の柄をぎゅっと握りしめた。
「そんなの、放っておけないよ! 早く山に入って、その怪しい魔導炉を止めちゃおう!」
「でも、油断は禁物よ。Bランクの先輩方が手負いになった場所なんだから、慎重に進みましょう」
一葉は優しく頷くと、空中を通じて蔓を巻くように優雅に指を動かした。
【一輪の秒芽】——環境体温保持。
手のひらから解き放たれた澄み切った緑の保持魔力が、三人を取り囲むようにふんわりと広がっていく。
途端に肌を刺していた北風の冷たさが和らぎ、まるで日当たりの良い陽だまりに包まれているかのような温もりが体を満たした。
「わあ……! ひと姉の保持魔法、本当にすごいや! 全然寒くない!」
二葉が嬉しそうに歓声をあげる。
「魔力の消費量を最小限に抑えつつ、僕たちの『一番快適な状態』だけを空間に固定している。……これなら極寒の山中での戦闘でも、体力を削られる心配はないね」
三葉も感心したように頷いた。
「ふふ、ありがとう。さあ、行きましょう!」
一葉を先頭に、三人は黒い霧が漂う深山へと足を踏み入れ始めた。
山道を登るにつれて、周囲の異変はより露骨なものとなっていった。
木々の幹は黒く腐食し、足元の土壌からは嫌な酸性臭が立ち込めている。小川の水は濁り、本来なら清らかな水音を立てているはずの流れる水が、重どろとした不気味な黒い液体へと変わっていた。
「水までこんなになっちゃって……。森の動物たちも、きっと困ってるよ」
二葉が痛ましそうに呟く。
その時だった。
ガサリ……ッ!
頭上の黒く枯れた枝が激しく揺れ、不気味な赤く光る眼球を持った巨体が降り立ってきた。
それは、北方の山林に生息する「スノーベア」が、黒い毒素を浴びて過剰に変異した姿だった。
本来の綺麗な白い毛並みは斑状に黒く汚れ、爪や牙は異常な長さに伸び切っている。
「グルアァァァァッ……!!」
大気を震わせる狂暴な咆哮。
怪物は正気を失った瞳で、一葉たちに向かって巨大な前脚を振り下ろしてきた。
「毒素によって暴走させられた変異個体だよ!」
三葉が叫ぶ。
「倒しちゃダメだよ! あのクマさんも、毒に苦しんで暴れてるだけなんだから!」
二葉が叫びながら、前線へと跳躍した。
「【二生の根張】——!」
二葉が木剣を地面へ叩きつけると、雪と黒土を押し分けて、温かな緑の魔力根が津波のように爆発的に伸び広がった。
根は突進してくるスノーベアの巨大な身体をしなやかに包み込み、その強力な腕力を傷つけることなく受け止める。
二葉の魔力根から注がれる温かな波動が、怪物の激しい痛みを和らげるように身体へと染み込んでいった。
「グ……ガアァ……!?」
暴れ回っていたスノーベアの動きが、二葉の包み込む根張りによってピタリと止まる。
「今よ、三葉!」
「了解! 【三途の葉落】——!」
三葉が指先から微細な分解波動を放った。
波動はスノーベアの体内を駆け巡り、正常な肉体細胞を傷つけることなく、骨や血液に固着していた紫黒色の人工毒素だけをピンポイントで切り離していく。
パリパリパリッ……!
不気味な不協和音とともに、怪物の体表から黒い粘液が剥がれ落ち、雪の上で蒸発して消えていった。
「そして……戻りなさい、本来の健やかな姿へ! 【一輪の秒芽】!」
仕上げに一葉が指を優雅に動かす。
胸元のペンダントから放たれた清廉な緑の保持光が、二葉が与えた鎮静状態と、三葉がもたらした毒素分離状態を逃さず捉え、スノーベアの全身へと強力に定着・固定させた。
光が収まると、そこには黒い汚れが綺麗に消え去り、元の美しい白銀の毛並みを取り戻したスノーベアが横たわっていた。
「グルゥ……」
怪物は毒素の苦しみから解放され、安らかな息を吐きながら、感謝を示すように一葉たちの顔を一瞬見つめると、森の奥へと静かに走り去っていった。
「よかった……。ちゃんと元に戻れたね」
二葉が木剣を背中に戻し、ホッと胸を撫でおろす。
「うん。でも、これはまだ山裾の異変に過ぎないよ」
三葉が険しい表情を浮かべた。
「山頂付近の『旧魔導研究所跡地』からは、これの数十倍、数百倍の濃度で黒い毒素が噴き出し続けている。元から絶たないと、この森全体が死に絶えてしまうよ」
「ええ。急ぎましょう!」
一葉は胸のペンダントを強く握りしめた。
三人は黒い煙が立ち上る白嶺山脈の山頂——不祥の旧魔導研究所跡地へ向けて、雪を踏みしめながら力強く登り続けていくのだった。
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