第20話:休日の憩いと、歪みの予兆
バルガスとの特訓を終えた翌日。『グリーン・リーフ』は週に一度の定休日を迎えていた。
普段なら開店準備の音で慌ただしい早朝の厨房も、今朝は穏やかな静寂に包まれている。
朝のやわらかな光が窓から差し込み、研ぎ澄まされた木造のテーブルや調度品をあたたかく照らしていた。
二階の居住スペースから降りてきた一葉は、エプロンを付けずにカウンターへ向かうと、自家焙煎の珈琲豆をミルに入れて静かにハンドルを回し始めた。
ゴリゴリと心地よい音が店内に響き、香ばしいアロマがゆっくりと広がっていく。
「おはよう、ひと姉。早いね」
階段を降りてきたのは三葉だった。まだ寝癖のついた頭を気にしながら、手帳とペンを大切そうに抱えている。
「おはよう、三葉。昨日の疲れは残っていない?」
一葉は優しく微笑みながら、お湯をドリップポットへと注いだ。
「うん、全然平気だよ。ひと姉が応急処置してくれたおかげで、筋肉痛もほとんどないんだ。……それより、昨日の特訓で試した魔法の組み合わせを忘れないうちに整理したくて」
三葉はカウンター席に腰掛け、手帳を開いた。
そこにはびっしりと昨日の気づきや、摩擦制御の範囲、発動までの秒数などが細かく記録されている。
「相変わらず勉強熱心ね」
一葉は丁寧に淹れた珈琲を父の一二三と母の葉の分として取り分け、三葉には温かいホットミルクを差し出した。
「ありがとう、ひと姉」
「ふあぁ……みんなおはよう。いい匂い……」
大きなあくびをしながら降りてきたのは二葉だった。まだ半分目が開いていない状態で、ふらふらと三葉の隣の席に吸い寄せられていく。
「二葉、顔を洗ってきなさい。美味しいパンが焼き上がるところよ」
奥の厨房から姿を現したのは母の葉だった。焼き立てのクロワッサンとハーブ風味のスコーンが並んだ焼き網を手に、楽しそうに微笑んでいる。
「はーい、お母さん! わぁ、クロワッサンだ!」
一気に目が冴えた二葉が洗面所へ走り去るのを見て、一二三も苦笑しながら出来立ての珈琲を手にした。
「ふむ、いい焙煎具合だ。休みの日くらい、あの子たちもゆっくりさせたいな」
「そうね、あなた」
家族全員が揃ったテーブルには、焼きたてのパンとスープ、フレッシュな果物が並んだ。
「いただきます」
家族の温かな声が重なり、休日ならではのゆっくりとした朝食が始まる。
二葉はクロワッサンをサくっと音を立てて頬張りながら、目を輝かせた。
「ねえねえ! 今日の休み、朝食が終わったらみんなで街の東側にある中央市場に行かない? バルガスさんから聞いたんだけど、珍しい果物が入荷してるらしいの!」
「いいね。僕も魔法の触媒になりそうな新しいハーブや茶葉の種がないか探したかったんだ」
三葉が即座に賛同する。一二三と葉も顔を見合わせ、優しく頷いた。
「いいじゃない。店の新しいメニューの試作にも使えそうだし、みんなで行きましょうか」
「一葉もどうだ? 久しぶりの散策だ」
「うん、喜んで。買い出しの籠を用意するわね」
一葉は嬉しそうに頷いた。
午前十時。街の中央市場は、大勢の買い出し客や商人たちの威勢の良い声で満ち溢れていた。
カラフルな布製の日よけが並び、獲れたての野菜、果物、鮮魚、さらには冒険者が持ち込んだ魔物の素材や薬草がところ狭しと陳列されている。
「すごい熱気……! ひと姉見て、あの大きなリンゴ! 赤くてすごく美味しそう!」
二葉が果物屋の店頭で足を止め、嬉しそうに声をあげる。
「本当。甘みも強そうだし、ジュースやタルトにしたら美味しそう」
一葉が【一輪の秒芽】を指先でかすかに意識しながら果実の張りを確認する。鮮度を見極める技術は、料理の仕込みにおいても一葉の右に出る者はいなかった。
三葉は隣の薬草店で、珍しい外国産のハーブを熱心に吟味している。
「このハーブ、微弱な魔力を帯びているな……。不純物を分解した時にどんな香りが残るか試してみたい」
一二三と葉は、少し離れた場所から楽しそうに買い物を楽しむ三人の背中を静かに見守っていた。
「あの子たち、本当に逞しくなりましたね」
葉がそっと一二三の腕に手を添えながら呟く。
「ああ。日々のカフェの仕事を通して魔法の扱いを磨き、仲間や客との関わりの中で心を育てている。私がかつて武力だけに頼っていた頃とは比べものにならないほど、優しく、強い」
一二三は自嘲気味に微笑みながら、二葉たちの笑顔を見つめた。
しかしその時、一二三の表情からふっと穏やかさが消えた。
(……ん?)
一二三の視線が、市場の喧騒を通り抜け、街の東側に広がる大森林の方角へと向けられる。
隣にいた葉も、ほぼ同時に身体を強張らせ、微かに眉をひそめた。
「一二三さん……感じた?」
「……ああ。肌にまとわりつくような、不快な魔力の揺らぎだ」
普通の人間や新人の冒険者には到底感知できないほど微かな、しかし決定的な「不協和音」。街を包む空気の底で、重く濁った魔力の波が脈打っていた。
「森の奥の歪みが、確実に浅層へ向かって侵食を強めている……。昨日のワイルドボアは、やはり単なる偶然ではなかったな」
一二三が低く呟く。
かつての冒険者としての鋭敏な感覚が、これから訪れるであろう危機を明確に捉えていた。
「どうしますか? 私たちが直接、森へ入って……」
「いや」
一二三は静かに首を振った。
「私たちが動けば、ギルドや国の上層部が察知して騒ぎが大きくなる。何より、私たちはもう一線を退いた『カフェの店主と給仕』だ」
一二三は向き直り、買い物を終えて笑顔で駆け寄ってくる二葉、三葉、そして一葉を見つめた。
「お父さん! お母さん! すごく立派なハーブと新鮮な果物が買えたよ!」
二葉が買い物籠を誇らしげに掲げてみせる。
「店の新作ジュースに使えると思う。楽しみにしていてね」
一葉も微笑みながら報告した。
一二三と葉は即座に普段通りの優しく穏やかな表情に戻り、あたたかく頷いた。
「それは楽しみだね。さあ、買い物が終わったら店に戻って、みんなで少し早いお茶にしようか」
「うん!」
元気よく答える子どもたちの姿を見ながら、一二三は心の中で静かに誓った。
(いざとなれば、この命に代えてもこの日常を守る。……だが、それまではあの子たちの可能性を信じよう。あの子たちの固い絆なら、どんな歪みだって乗り越えられるはずだ)
風がふっと吹き抜け、街の喧騒の中に爽やかなハーブの香りを運んでいく。
平穏な休日の裏側で、確実に迫りつつある異変の影。しかし、森羅家の温かな絆は、どんな嵐にも揺るがない根を静かに張り巡らせていた。
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