第10話:エルム農園と、一葉の「鮮度
「うわあ……! ここがエルム農園さんかぁ! すごく広いね!」
王都の東門から馬車で二十分ほど離れたのどかな郊外。
二葉が広大な緑の敷地を見渡し、感嘆の声を上げた。
規則正しく耕された畝には、青々と茂るハーブや見たこともない珍しい果実がたわわに実り、風が吹くたびに甘く爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
ギルドの老鑑定士から紹介状を受け取った翌日の定休日、三姉弟はさっそく新たな仕入れ先の開拓のために『エルム農園』を訪れていた。
「手帳のメモによると、ここの園主さんは王宮の元・庭園技師だったエルムさんという方らしいよ。土壌の管理と栽培技術においては王都周辺で一番だって」
三葉が革表紙の手帳を確認しながら、農園の敷地内へと続く木製アーチをくぐる。
「これだけ素晴らしい果物やハーブを仕入れることができれば、パウンドケーキやタルトのバリエーションが一気に広がりそうね」
一葉が楽しそうに目を輝かせながら二人の後に続いた。
敷地の奥へ進むと、藁葺き屋根の作業小屋の前で、麦わら帽子を深くかぶった小柄な老人が一人、落ち込んだ様子で頭を抱えていた。
「あの……失礼いたします。エルム様でいらっしゃいますでしょうか?」
一葉がそっと声をかけると、老人はハッと顔を上げ、眉間に深い皺を寄せて三人を見つめた。
「ん……? なんだね君たちは。申し訳ないが、今は見学の対応をしている余裕はないんじゃよ。見ての通り、大変なことになっていてね……」
エルムと名乗った老人は、溜め息をつきながら作業小屋の横に積まれた木箱の山を指さした。
「これは……『月光イチゴ』と『ルビーレモン』ですか?」
三葉が木箱に近づき、中身を観察する。
そこには、まるで宝石のように美しい赤と黄色の果実が大量に詰め込まれていた。
しかし、その多くは表面がわずかに変色し、甘い香りの中に微かな酸敗臭が混ざり始めていた。
「そうじゃ。昨日収穫したばかりの特上品なんじゃがな……。昨夜、運悪く魔法冷蔵庫の魔石が破裂してしまってな。冷気が完全に切れてしまったんじゃ。王都の高級菓子店や宮廷へ納品する予定の品だったのだが、この暑さだ。今日の夕方には完全に傷んで全滅してしまう……」
エルムは悔しそうに拳を握りしめた。
「魔法冷蔵庫の修理業者が来るのは明日の朝じゃ。丹精込めて育てた果実が、ただ腐っていくのを指をくわえて見ているしかないとは……悔しても悔やみきれん……」
エルムの言葉に、二葉と三葉が息を飲んだ。これほど見事な果実が捨てられてしまうのは、食を扱う者としてあまりにも忍びない。
「エルムさん、失礼ですが……その果実、少し触れさせていただいてもよろしいでしょうか?」
一葉が穏やかな、しかし芯のある声で尋ねた。
「ん……? 構わんが、果汁がついて服が汚れるぞ?」
一葉はそっと膝をつき、木箱の中に詰まった大量の月光イチゴの上に両手をかざした。
(魔法冷蔵庫の冷気を再現するんじゃない。果実そのものが『摘み取られた瞬間の最高の状態』を、そのまま保てるように……)
一葉が静かに目を閉じ、体内の魔力をゆっくりと集中させる。
【一輪の秒芽】
一葉の掌から、やわらかく温かな新緑色の光が溢れ出し、木箱全体を優しく包み込んだ。
通常、この魔法は切り花や一皿の料理、あるいは一輪の草木など、小さな対象に対して使用されるものだった。
しかし、一葉が思い描いたのは「カフェの大型保管庫に仕込み素材を一括で保存する」イメージだった。
新緑の光は波紋のように広がり、作業小屋の前に積み上げられた十数箱におよぶ果実の山全体を隙間なく覆い尽くしていった。
「な……なんじゃ、この光は……!?」
エルムが目を丸くして立ち上がる。
光が収まった直後、奇跡が起きた。
木箱の中で傷みかけていた月光イチゴの変色がピタリと止まり、果皮にハリとツヤが戻ったのだ。
さらに、先ほどまで漂っていた酸敗臭は瞬く間に消え去り、摘みたて特有の濃密で瑞々しい果実の香りが、辺り一面に力強く立ち込めた。
「な……っ!? 傷みかけていた果実の劣化が止まった……いや、完全にその場の状態で固定されただと……!?」
エルムは慌てて木箱に駆け寄り、イチゴを一粒手に取った。
指先に伝わる適度な弾力、表面を覆う新鮮な産毛、そして溢れんばかりの魔力と水分。
「信じられん……魔法冷蔵庫の冷気保存など比べものにならんほどの完全な『鮮度保持』じゃ……! 一体どんな高位の生活魔法具を使ったのじゃ!?」
「魔法具ではありません。私の生活魔法【一輪の秒芽】です。いつもカフェの食材やコーヒー豆の鮮度を保つために使っているものでして」
一葉がふうっと小さく息を吐き、微笑みながら立ち上がった。一度に大量の果実に掛けたため少し体力を消費したようだが、その表情は穏やかだった。
「せっかくエルムさんが大切に育てられた果実ですもの、無駄になってしまうのは悲しいですから。これで明日の朝、修理業者さんが来るまでは完璧な状態で持ちますよ」
エルムは手に持ったイチゴと一葉の顔を交互に見比べ、開いた口が塞がらなかった。
「生活魔法……? バカな、これだけの量の果実の時間を丸ごと固定するなど、王宮の第一級調合師や高位の時空間魔術師でも不可能な芸芸じゃぞ……! それを、ただの食材管理の延長でやったというのか……!?」
「ええ。私たちは街の『カフェ・シンラ』という喫茶店の店員なんです。今日はギルドの鑑定士様からの紹介状を持って、仕入れの相談に伺いました」
三葉が懐から紹介状を取り出し、エルムへ手渡した。
エルムは震える手で紹介状を受け取り、そこに書かれた鑑定士の直筆サインと「森羅家の三姉弟」という文字を確認すると、深々と頭を下げた。
「……失礼した。ワシはとんでもないお方たちをただの子供と勘違いしていたようじゃ。森羅一葉殿、そして二葉殿、三葉殿。大切な果実を救っていただき、本当に感謝いたします」
「頭を上げてください、エルムさん! 私たちも、こんなに素晴らしい果物に出会えて感動しているんです」
二葉が慌ててエルムの手を取る。
「よし……! 助けていただいたお礼と言ってはなんですが、今日救っていただいた月光イチゴとルビーレモン、そして農園で採れるハーブ類は、すべて市場の半額でお納めさせてもらいましょう! 当然、一番状態の良い最高品質のものを最優先で仕入れさせていただきます!」
「半額ですか!? そんな、申し訳ないです……!」
三葉が驚いて手を振るが、エルムは力強く首を振った。
「いいや、ワシの誇りの問題じゃ! あなた方のような、素材の価値を心から理解し、大切にしてくれる方に使ってもらえるなら、農家としてこれ以上の喜びはない! ぜひ、末永いお付き合いをお願いしたい!」
エルムの熱意に押され、三人は顔を見合わせて嬉しそうに微笑み合った。
「ありがとうございます、エルムさん。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
一葉が丁寧にお辞儀をし、こうして『カフェ・シンラ』は、王都最高峰の農園という最高の仕入れパートナーを獲得したのだった。
夕方、仕入れたばかりのフレッシュな月光イチゴとルビーレモンを抱えて、三人は『カフェ・シンラ』へと戻ってきた。
「ふぅー! 今日は最高の定休日になったね!」
二葉がカウンターの上に木箱を置き、嬉しそうに腰に手を当てた。
「うん。エルム農園さんのハーブと果実があれば、新メニューの開発が一気に加速するよ。僕はさっそく、ルビーレモンを使った特製果汁シロップの仕込みに入るね」
三葉が手帳に新しいレシピの構成を書き込みながら、手際よくまな板と包丁を準備する。
「私は月光イチゴを使った自家製ジャムと、タルトの生地を仕込みましょうか。明日の開店が楽しみね」
一葉がエプロンを身に纏い、優しく微笑む。
三人にとって、自分たちの魔法は決して誰かに誇るための力でも、戦うための武器でもなかった。
大好きなカフェで、大切な家族と力を合わせ、訪れる客に最高の一杯とひと時を提供するための「日常の道具」。
けれど、その真摯な日常の積み重ねが、知らず知らずのうちに周囲の大人たちを驚かせ、新たな縁と可能性を引き寄せていた。
「さあ、明日もたくさんのお客様に笑顔になってもらえるように、張り切って仕込みを始めましょう!」
「「おー!」」
二葉と三葉の元気な返事が厨房に響き渡る。
街の路地裏に佇む小さな喫茶店『カフェ・シンラ』の明かりは、今夜も温かく、優しく街の闇を照らし続けていた。
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