第59話 おはようの
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
俺は玄関へ向かい、ドアを開ける。
「おはよう」
「おはよう」
前川さんが小さく笑った。
いつも通り。
見慣れた笑顔。
それなのに。
昨日のことを思い出した瞬間、心臓が変な音を立てた。
「入る?」
「うん」
前川さんは頷く。
だけど。
なぜかその場から動かなかった。
「前川さん?」
「……」
返事がない。
ただじっと俺を見ている。
何か言いたそうなのに言えない。
そんな顔だった。
「どうした?」
「その……」
前川さんが視線を落とす。
耳が真っ赤だった。
「昨日からずっと考えてた」
「え?」
「ずっと」
小さな声だった。
だけど妙にはっきり聞こえた。
「何を?」
「……」
前川さんは答えない。
代わりに1歩近付いた。
距離が縮まる。
近い。
思わず息を止めそうになるくらい近い。
「前川さん」
「うん」
「近い」
「知ってる」
「……」
「だから近付いたの」
そう言いながら前川さんは俺の制服の袖を掴んだ。
ちょこんと。
遠慮がちに。
でも離す気はなさそうだった。
「昨日ね」
「うん」
「全然寝れなかった」
「……」
「寝ようとしても思い出しちゃって」
前川さんが恥ずかしそうに笑う。
「何回も」
反則だろ。
そんなこと言われたら。
「実は俺も寝れなかった」
「本当?」
「本当」
即答だった。
前川さんの目が少しだけ丸くなる。
それから。
安心したみたいに笑った。
「良かった」
「何が?」
「私だけじゃなかった」
そう言って前川さんはまた一歩近付く。
もう逃げ場なんてない。
いや。
最初から逃げる気もなかった。
「ねぇ」
「ん?」
「昨日から我慢してた」
「……」
「だから」
前川さんの声が震える。
緊張しているのが分かった。
たぶん俺と同じくらい。
「もう我慢できない」
その言葉で十分だった。
何を言いたいのか。
何を求めているのか。
全部伝わった。
「……前川さん」
名前を呼ぶ。
前川さんの肩がぴくっと揺れた。
それから嬉しそうに目を細める。
「うん」
「本当にいいの?」
「それ聞く?」
「聞くだろ」
「もう」
前川さんは困ったように笑った。
「鈍い」
聞き慣れた言葉。
だけど今は少し甘かった。
「私はしたい」
「……」
「昨日からずっと」
前川さんがゆっくり目を閉じる。
玄関が静かになる。
聞こえるのはお互いの呼吸だけ。
心臓の音まで聞こえそうだった。
「……」
「……」
俺は小さく息を吐く。
そして。
そっと前川さんを引き寄せた。
前川さんの肩が少しだけ震える。
だけど逃げない。
離れない。
「……」
「……」
ほんの少し。
本当に少しだけ。
だけど。
それだけで十分だった。
離れた瞬間。
前川さんは顔を真っ赤にして俯いた。
「……」
「前川さん?」
「無理」
「何が」
「恥ずかしい」
前川さんが両手で顔を隠す。
「今さら?」
「今さらだから!」
即答だった。
「もう学校行きたくない」
「なんでだよ」
「だって今ので1日思い出すもん」
「俺も思い出すけど」
「ほら!」
前川さんがさらに顔を赤くする。
「だから言わないで!」
そう言いながら俺の袖を引っ張る。
帰るわけでもない。
離れるわけでもない。
ただ恥ずかしくて仕方ないらしい。
そんな前川さんが可愛くて。
俺は少しだけ笑ってしまった。




