第58話 別れ際にも
夜風が心地よかった。
時刻は20時を少し回っている。
住宅街は静かだった。
昼間の喧騒は消え、聞こえるのは虫の鳴き声と時折通り過ぎる車の音だけ。
オレンジ色の街灯が等間隔に並び、アスファルトを淡く照らしている。
俺と前川さんは並んで歩いていた。
肩が触れそうで触れない距離。
少し前までなら意識しなかったはずなのに、今は違う。
隣にいるだけで妙に落ち着かない。
それなのに離れたくない。
そんな不思議な気持ちだった。
「今日はありがとう」
前川さんが小さく言った。
「何が?」
「全部」
そう言って少しだけ笑う。
その横顔はどこか柔らかかった。
俺は思わず視線を逸らす。
今日は色々ありすぎた。
学校で。
そして家で。
お互いの気持ちを伝えて。
キスもした。
思い出すだけで顔が熱くなる。
「楽しかった?」
前川さんが聞いてくる。
「まあ」
「なにそれ」
不満そうな声だった。
「楽しかったし嬉しかったよ」
「ふふ」
前川さんは満足そうに笑う。
その笑顔を見るだけで胸が温かくなった。
しばらく歩く。
会話が途切れても気まずくない。
むしろ心地良かった。
夜の住宅街を並んで歩くだけ。
それだけなのに特別な時間に感じる。
「……」
「……」
沈黙が続く。
だけど嫌じゃない。
前川さんも同じなのか、時折こちらを見ては小さく笑っていた。
「なんだよ」
「別に」
「絶対何か思ってるだろ」
「思ってるよ」
「何を?」
「秘密」
そう言って前川さんは楽しそうに笑う。
その笑顔を見ているだけで、俺まで嬉しくなった。
この道も。
この時間も。
できることならもう少し続いてほしかった。
だが。
「あ……」
前川さんが足を止める。
俺も立ち止まった。
顔を上げる。
最近では見慣れた1軒家。
前川さんの家だった。
「着いたね」
「うん」
前川さんは頷く。
だが。
すぐに家へ向かおうとはしなかった。
「……」
「……」
沈黙。
俺たちは家の前に立ったまま動かない。
街灯の光が前川さんの横顔を照らしていた。
どこか落ち着かない様子だった。
スカートの裾を指先で摘み、小さく弄っている。
「どうした?」
俺が尋ねる。
すると。
前川さんは少しだけ困ったように笑った。
「なんか」
「うん」
「帰りたくないなって」
心臓が跳ねる。
前川さんは恥ずかしそうに俯いた。
「だって今日」
小さな声だった。
「すごく嬉しかったから」
「……」
「だから終わっちゃうのが嫌」
その言葉が嬉しかった。
俺だって同じだった。
今日という日が終わってほしくない。
そんな気持ちは確かにあった。
「家に帰ったら今日が終わるでしょ?」
「そうだね」
「明日も会えるのに」
前川さんは苦笑する。
「自分でも変だと思う」
「変じゃない」
「そうかな? 」
「そうだよ」
俺が答えると。
前川さんは少しだけ嬉しそうに笑った。
そして。
何かを決意したように顔を上げる。
「あのね」
「ん?」
「お願いがあるの」
頬が少し赤かった。
夜だから分かりにくい。
それでも分かってしまうくらいには赤かった。
「お願い?」
前川さんは小さく頷く。
「もう1回」
「え?」
「もう1回だけ」
そこで言葉を止める。
だけど。
言いたいことは分かった。
前川さんは恥ずかしそうに視線を逸らした。
「キスして」
反則だろ。
そんな顔で言われたら断れるわけがない。
「ダメ?」
上目遣いだった。
心臓に悪い。
「ダメじゃない」
そう答えると。
前川さんの表情がぱっと明るくなった。
その顔を見た瞬間、俺まで嬉しくなる。
自然と距離が近付く。
静かな住宅街。
街灯の下。
前川さんの自宅の目の前。
前川さんは少しだけ背伸びをした。
目を閉じる。
長い睫毛が小さく震えていた。
緊張しているのだろう。
俺も同じだった。
それでももう迷わない。
そっと顔を近付ける。
そして。
唇が重なった。
短い時間。
だけど不思議なくらい胸が満たされる。
ゆっくり離れると。
前川さんは顔を真っ赤にしていた。
両手で口元を隠している。
「えへへ……」
照れたような笑み。
その表情が可愛すぎた。
「満足した?」
俺が聞く。
すると前川さんは少し考える。
「たぶん」
「たぶん?」
「また明日したくなるから」
「おい」
思わず笑ってしまった。
前川さんも楽しそうに笑う。
そして。
今度こそ家の方へ向き直った。
「じゃあ」
「ああ」
「また明日ね」
優しい声だった。
「また明日」
俺が答える。
前川さんは数歩進む。
だけど。
また振り返った。
「本当に明日もする?」
「するよ」
「絶対?」
「絶対」
「良かった」
嬉しそうに笑う。
それから玄関へ向かう。
そしてドアを開ける直前。
もう1度だけ振り返った。
「おやすみ」
「おやすみ」
「また明日」
「ああ。また明日」
前川さんは幸せそうに笑い、そのまま家の中へ入っていく。
玄関の灯りが点いた。
ドアが閉まる。
静かな夜が戻る。
「……」
俺はしばらくその場に立っていた。
自然と口元が緩む。
たった1日で。
こんなにも明日が楽しみになるなんて思わなかった。
俺は夜空を見上げ、小さく息を吐く。
明日の朝が待ち遠しい。
そんなことを思いながら、帰路に就いた。




