第56話 俺の気持ち
俺と前川さんは、人通りの少ない自動販売機の前まで移動していた。
近くには柔剣道場がある。
だが今日は妙に静かだった。
中から掛け声は聞こえない。
もしかすると部活が休みなのかもしれない。
夕方の風が吹き抜ける。
聞こえるのは自動販売機のモーター音だけ。
さっきまでいた教室の喧騒が嘘みたいだった。
「それで話って?」
前川さんが視線を逸らしながら尋ねる。
どこか落ち着かない様子だった。
制服の裾を指先で弄っている。
緊張しているのが分かった。
たぶん。
俺と同じくらい。
「……」
言葉が出ない。
本当は伝えたいことなんて決まっている。
ここへ来るまで何度も頭の中で練習した。
なのに。
いざ本人を前にすると全部吹き飛ぶ。
「もし無理なら――」
「違う」
思わず遮った。
前川さんが目を見開く。
「違うんだ」
「……うん」
「その……」
ダメだ。
全然ダメだ。
本当に言いたいことがあるのに。
上手く言葉にならない。
「俺さ」
ようやく声を絞り出した。
「最近ずっと考えてた」
「何を?」
「前川さんのこと」
前川さんの肩が小さく揺れる。
大きな瞳が真っ直ぐ俺を見つめた。
「もし前川さんがいなくなったらどうなるかなって」
沈黙。
風が吹く。
前川さんは何も言わない。
ただ俺の言葉を待っていた。
「最初は平気だと思った」
自嘲気味に笑う。
「でも全然平気じゃなかった」
「真春君……」
「気付いたんだ」
胸の奥が熱くなる。
恥ずかしい。
情けない。
逃げ出したい。
でも。
ここで逃げたら絶対後悔する。
「俺……」
言葉が止まる。
違う。
こんなんじゃない。
本当に言いたいのはもっと大事なことだ。
「俺……前川さんがいないと困る」
前川さんの瞳が大きくなる。
「……」
「一緒にいるのが当たり前になってた」
「……」
「話すのも」
「……」
「笑うのも」
「……」
「前川さんがいるのが普通だった」
少しずつ。
前川さんの目が潤んでいく。
「だから」
俺は拳を握った。
震えていた。
自分でも分かるくらい。
「離れないでほしい」
声も震えていた。
「俺には前川さんが必要なんだ」
言った。
ようやく。
ようやく言えた。
ずっと言えなかった言葉を。
「……っ」
前川さんが口元を押さえる。
涙が頬を伝った。
「ずるい……」
小さな声だった。
「え?」
「そんなこと言われたら……」
涙を拭いながら笑う。
だけど涙は止まらない。
「私、嬉しくて泣いちゃう」
胸が締め付けられた。
前川さんは1歩近付く。
俺も自然と前へ出る。
距離が縮まる。
「私……」
前川さんの声が震える。
「ずっと辛かった」
「辛かった? 」
「あれから真春君と距離ができちゃったから」
さらに涙が頬を伝う。
「だから私じゃなくてもいいんじゃないかって」
「……」
「いつか離れていくんじゃないかって」
そんなこと。
1度も考えたことがなかった。
「でも違ったんだね」
前川さんが泣き笑いの顔を向ける。
「私だけだったんだね」
「前川さん……」
「私も」
もう1歩。
前川さんが近付く。
手を伸ばせば触れられる距離。
「真春君がいないと無理」
涙で濡れた瞳が俺を映す。
「そんな身体になっちゃった」
心臓が跳ねた。
その言葉だけで十分だった。
もう何もいらない。
前川さんがゆっくり顔を上げる。
長い睫毛が震えていた。
俺も自然と引き寄せられる。
夕日が差し込む。
風が止まる。
世界から音が消えたような気がした。
近い。
近すぎる。
前川さんの吐息が頬に触れる。
シャンプーの香りがした。
心臓が嫌になるほど暴れる。
前川さんがそっと目を閉じた。
俺も目を閉じかける。
あと少し。
本当にあと少し。
唇が触れる――。
「まだキスしてないよね?」
聞き覚えのある声が飛んできた。
「!?」
「!?」
2人同時に飛び退く。
振り返ると。
そこにはニヤニヤ笑う後藤さんが立っていた。
「な、七海!?」
前川さんの顔が一瞬で真っ赤になる。
「いやー、ごめんごめん」
絶対思っていない。
「でもさぁ」
後藤さんは肩を竦める。
「流石に学校の敷地内で始められたら気になるじゃん?」
「見てたの!?」
「途中からね」
ケラケラ笑う。
「あと3センチくらいだった?」
「言うな!」
「2センチ?」
「な、七海!」
前川さんが悲鳴を上げた。
耳まで真っ赤になっている。
後藤さんは満足そうに頷く。
「うんうん」
「……」
「仲直りできたなら良かった」
そう言って踵を返した。
だが数歩歩いたところで振り返る。
「続きはまた今度しなよ」
ニヤリと笑う。
「もちろん今日でもいいと思うけど」
「七海ぃ!」
前川さんの抗議が飛ぶ。
だが後藤さんは手を振りながら去っていった。
「……」
「……」
沈黙。
さっきとは別の意味で気まずい。
前川さんは真っ赤な顔のまま視線を逸らしていた。
俺も顔が熱い。
たぶん同じくらい赤い。
「……帰る?」
俺が聞く。
「……う、うん」
前川さんは小さく頷いた。
だけど。
帰り道。
前川さんはそっと俺の袖を掴んだまま離さなかった。まるで2度と今回みたいに距離ができないように。




