第55話 踏み出した1歩
気付けば放課後になっていた。
ホームルームが終わると同時に、教室中が一気に騒がしくなる。
「今日ファミレス寄ろうぜ」
「部活行くぞー」
「課題やった?」
イスを引く音。
笑い声。
友達同士で集まるクラスメイトたち。
いつもの放課後の光景だった。
窓の外は夕焼け色に染まり始めている。
どこにでもある高校の放課後。
だけど。
俺だけは落ち着かなかった。
「……」
今日。
俺と前川さんは1言も話していない。
朝、顔を合わせた。
授業中も同じ教室にいた。
休み時間だって何度も近くを通った。
それなのに。
本当に1言もだ。
まるで他人みたいだった。
昨日まであんなに近かったのに。
たった1日でここまで距離ができるなんて思わなかった。
今日の授業内容もほとんど覚えていない。
数学。
英語。
現代文。
先生が何を話していたのか曖昧だった。
気付けば探していた。
前川さんの姿を。
前川さんの声を。
前川さんの存在を。
だけど話し掛けられなかった。
俺が避けたわけじゃない。
前川さんが避けたわけでもない。
たぶん。
お互いに意識しすぎてしまっただけだ。
俺は自分の席に座ったまま前川さんを見る。
前川さんは教室の後ろで後藤さんと話していた。
「それでねー」
「あははっ」
楽しそうに笑っている。
いつもの前川さんだ。
だけど。
どこか違った。
笑っているのに、時々こちらを見ている。
俺が気付いていないと思っているのかもしれない。
だが分かる。
授業中もそうだった。
何度も前川さんから視線を感じた。
俺が顔を上げる。
すると前川さんは慌てて黒板へ視線を戻す。
昼休みもそうだった。
友達と話しながら、ちらり。
廊下ですれ違った時も、ちらり。
目が合いそうになるたびに慌てて逸らす。
そのたびに胸が少しだけ苦しくなった。
たぶん。
前川さんも気にしている。
俺と同じくらい。
いや。
もしかしたらそれ以上に。
そして今も。
後藤さんと話しながら。
ちらり。
前川さんの視線がこちらへ向く。
俺と目が合った。
「……!」
前川さんの肩が小さく震える。
まるで悪戯を見つかった子供みたいだった。
そして。
すぐに視線を逸らした。
胸が少しだけ痛む。
昨日までは違った。
前川さんはもっと近かった。
隣にいるのが当たり前だった。
朝も。
昼も。
帰りも。
気付けば一緒にいた。
くだらない話をして。
笑って。
からかわれて。
それが当たり前になっていた。
だから気付かなかった。
その時間がどれだけ大切だったのか。
今日の昼休み。
前川さんが俺の席に来なかっただけで違和感があった。
放課後。
一緒に帰る約束をしていないだけで落ち着かなかった。
教室が妙に広く感じた。
隣の席との距離まで遠く感じた。
「……」
俺は無意識に拳を握る。
このままでいいのか?
そんなはずがない。
俺は前川さんと話したい。
前川さんの笑顔を見たい。
他愛のない話をして。
一緒に帰って。
また隣で笑ってほしい。
そんな当たり前の日常を失いたくない。
今さら気付いた。
俺は思っていた以上に前川さんに支えられていたんだ。
学校へ来るのが少し楽しみだったのも。
嫌なことがあっても頑張れたのも。
前川さんがいたからだ。
前川さんが隣にいてくれたから。
だから。
離れたままなんて嫌だった。
このまま何もしなかったら。
本当に自然と離れてしまう気がする。
話しかけるきっかけを失って。
少しずつ距離が開いて。
気付いた時には戻れなくなる。
そんな未来だけは嫌だった。
絶対に嫌だった。
すると。
前川さんが急に立ち上がった。
「い、行こ、七海!」
どこか慌てた声だった。
「え? あ、うん」
後藤さんが首を傾げる。
前川さんはカバンを手に、そのまま逃げるように教室の出口へ向かう。
俺から離れるように。
逃げるように。
その姿を見た瞬間。
体が勝手に動いていた。
「ま、待って!」
俺は机の上に置いていた学生カバンを掴む。
実は帰りの準備はもう終わっていた。
もし話す勇気が出たら。
すぐ追い掛けられるように。
ずっと準備していたのだ。
何度も迷った。
何度も諦めかけた。
でも。
今しかないと思った。
イスを鳴らしながら立ち上がる。
周囲の視線が集まる。
だが気にならなかった。
今はそれどころじゃない。
教室を飛び出す。
「前川さん!」
廊下の先に後ろ姿が見えた。
前川さんの肩がびくりと震える。
だが止まらない。
むしろ少しだけ歩く速度が速くなった。
逃げられたら終わる。
そんな気がした。
「待って!」
俺は走る。
数メートル。
いや、それ以上に感じた。
ようやく追いつく。
伸ばした手が前川さんの腕を掴んだ。
「っ……!」
前川さんが足を止める。
ゆっくり振り返る。
長い黒髪が揺れた。
大きな瞳が不安そうに揺れている。
まるで何かを怖がっているみたいだった。
「真春君……」
小さな声。
俺は息を整える。
心臓がうるさい。
緊張していた。
怖かった。
もし拒絶されたらどうしよう。
そんな不安もあった。
それでも。
ここで逃げたくなかった。
離れたくなかった。
前川さんを失いたくなかった。
俺は前川さんの手を離さないまま言う。
「少し話さない?」
前川さんの瞳が大きく揺れた。
まるで。
その言葉をずっと待っていたみたいに。




