第53話 気まずい2人きりの朝
ピンポーン。
静かな朝の玄関にドアフォンの音が響いた。
俺はソファから立ち上がる。
壁掛け時計を見ると、時刻は7時30分。
いつも通りの時間だった。
普段なら何も考えず玄関へ向かう。
だけど今日は違う。
胸の奥が妙に落ち着かなかった。
俺は小さく息を吐いてから玄関へ向かう。
そして扉を開けた。
「お、おはよう」
そこには前川さんが立っていた。
朝日を受けた制服姿。
見慣れているはずの姿だった。
何度も見てきた。
学校でも。
休日でも。
家でも。
だけど――。
今日はいつもより可愛く見えた。魅力的に映った。
「うん。おはよう」
前川さんが小さく微笑む。
それだけだった。
「……」
「……」
会話が続かない。
いつもなら違う。
『おはよう!』
『今日も来ちゃった』
『眠そうな顔してるね』
そんな軽口が飛んでくる。
だけど今日は何もない。
沈黙だけが残った。
原因は分かっている。
昨日だ。
昨日の夜。
あと少しだった。
本当にあと少し。
前川さんの顔が近づいて。
吐息が触れそうな距離まで近づいて。
俺も目を閉じかけて。
だけど結局――届かなかった。
たった数センチ届かなかっただけで、俺たちの空気は完全に変わってしまっていた。
「と、とりあえず入って」
「う、うん」
前川さんは小さく頷く。
そして玄関へ足を踏み入れた。
ローファーを脱ぐ。
その何気ない仕草ですら妙に意識してしまう。
まずい。
落ち着け。
俺は慌てて視線を逸らした。
別に変な意味じゃない。
ただ、まともに見られなかっただけだ。
前川さんもどこかぎこちない。
普段なら元気よく、
『お邪魔します!』
と笑うのに。
今日は小さく頭を下げるだけだった。
「お邪魔します……」
声まで小さい。
それが余計に緊張感を生んでいた。
俺たちはリビングへ移動した。
途端に静寂が広がる。
聞こえるのは壁掛け時計だけ。
カチ。
カチ。
カチ。
秒針の音が妙に大きい。
こんなに時計の音って大きかっただろうか。
「……」
「……」
誰も何も言わない。
気まずい。
めちゃくちゃ気まずい。
俺は誤魔化すようにテレビのリモコンへ手を伸ばした。
だが途中で止まる。
テレビをつけたところで何を見ればいい。
ニュースか?
朝の情報番組か?
そんなものを流したところで、この空気が消える気がしなかった。
結局リモコンを置く。
そしてまた沈黙。
なんなんだよこれ。
前川さんと2人きりになることなんて今まで何度もあった。
一緒に買い物もした。
一緒にご飯も食べた。
プリクラだって撮った。
休日に出かけたこともある。
家に来た回数だって1度や2度じゃない。
なのに。
今日は全然違う。
妙に緊張する。
妙に落ち着かない。
前川さんを前川さんとして見られない。
1人の女の子として意識してしまう。
「り、料理作るね」
沈黙に耐えきれなくなったように前川さんが立ち上がる。
「あ、うん」
俺も短く返す。
会話終了。
たったそれだけだった。
いつもなら違う。
『楽しみにしててね!』
『今日はスーパーで安かったんだ~』
『絶対おいしいから期待して!』
そんな会話が続く。
だけど今日はない。
前川さんは逃げるようにキッチンへ向かってしまった。
俺はソファへ腰を下ろす。
スマートフォンを触り始める。
画面を眺める。
SNSを開く。
閉じる。
ニュースを見る。
閉じる。
何も頭に入ってこない。
視線だけが勝手にキッチンへ向いてしまう。
前川さんは野菜を切っていた。
真剣な横顔。
いつも見ているはずなのに、今日は妙に綺麗に見えた。
だけど。
どこか様子がおかしい。
包丁を持つ手が少しだけぎこちない。
リズムもいつもより悪い。
たぶん――同じだ。
前川さんも意識している。
昨日のことを。
あの距離を。
あの空気を。
そう思った瞬間。
胸の奥が熱くなった。
すると。
不意に前川さんがこちらを見た。
目が合う。
「あ」
「あ……」
声が重なる。
その瞬間。
お互い慌てて目を逸らした。
数秒後。
ちらりと見れば、前川さんは耳まで真っ赤になっていた。
たぶん俺も同じ顔をしている。
なんなんだよこれ。
付き合ってもいないのに。
まるで初恋の中学生みたいじゃないか。
俺は時計を見る。
7時40分。
まだ10分しか経っていなかった。
嘘だろ。
体感では1時間くらい過ぎている。
それくらい濃密だった。
カチ。
カチ。
カチ。
静かな部屋に時計の音だけが響く。
嫌な沈黙じゃない。
むしろ心地いいのかもしれない。
だけど落ち着かない。
お互いが、お互いを意識していることが分かってしまうから。
昨日までは普通だった。
何気なく隣に座れた。
何気なく笑い合えた。
何気なく名前を呼べた。
なのに。
たった数センチ。
本当にたった数センチ。
届きそうで届かなかったその距離が、俺たちの関係を少しだけ変えてしまった。
そしてその変化に、俺も前川さんもまだ慣れていなかった。




