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彼女を奪われても何も言わなかった俺、イケメンがクラスで自慢した結果なぜか1軍女子に距離を置かれて孤立した  作者: 白金豪


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第52話 前川さんとの距離は、たった数センチなのに

 俺と前川さんはリビングへ戻った。


 さっきまで母親がいたとは思えないほど、部屋は静まり返っていた。


 聞こえるのは壁掛け時計の秒針だけ。


 カチ、カチ、と一定のリズムを刻む音が妙に耳につく。


 つい数分前まで笑い声が響いていたはずなのに。


 今はまるで別の空間みたいだった。


 お母さんの明るい声もない。


 からかうような笑顔もない。


 残されたのは俺と前川さん、2人だけ。


 それだけのことなのに、不思議と胸が落ち着かなかった。


 さっきまでは普通だったはずだ。


 母さんがいて、前川さんがいて、3人で話していた。


 なのに今は違う。


 2人きりになった途端、前川さんの存在がやけに意識される。


 隣にいるだけなのに。


 同じ空間にいるだけなのに。


 妙に緊張する。


 俺はその気持ちを誤魔化すようにソファへ腰を下ろした。


 すると前川さんも向かいではなく同じソファへ座る。


 だが――。


「……?」


 違和感があった。


 いつもと違う。


 距離が遠い。


 普段なら肩が触れそうな位置に座る彼女が、今日はソファの端に腰を下ろしていた。


 俺との間には明らかな隙間がある。


 まるで意識的に距離を取っているみたいだった。


 沈黙が落ちる。


 時計の音だけがやけに大きく聞こえた。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 時間だけがゆっくり流れていく。


 何かを待つように。


 何かが始まる前みたいに。


 そして――。


 前川さんが少しだけ身体を動かした。


 ほんのわずか。


 だが確かに俺との距離が縮まる。


 ソファの隙間が少しだけ狭くなった。


 俺は思わず視線を向ける。


 すると前川さんは気付いていないふりをした。


 けれど耳が赤い。


 数秒後。


 また少し近付く。


 慎重に。


 ためらうように。


 まるで警戒しながら近寄る猫みたいだった。


 近付きたい。


 でも近付き過ぎるのは怖い。


 そんな気持ちが伝わってくる。


 さらに少し。


 また少し。


 距離が縮まる。


 不思議だった。


 たった数センチ。


 それだけなのに心臓が落ち着かない。


 俺の方が意識してしまう。


「前川さん?」


 思わず名前を呼ぶ。


 すると前川さんはゆっくり顔を上げた。


 頬が赤い。


 目もどこか潤んで見える。


「ねぇ」


 小さな声だった。


 だけど静かな部屋では十分すぎるほど聞こえた。


 そして真っ直ぐ俺を見つめる。


 その視線だけで胸の奥がざわついた。


「真春君のお母さんが帰ってきて分かったの」


「え?」


「私ね――」


 前川さんは言葉を探すように唇を動かす。


 1度口を開く。


 けれど閉じる。


 また開いて、閉じる。


 普段の彼女ならこんな風に迷わない。


 それだけ大切な言葉なのだろう。


 俺は黙って待った。


 前川さんが勇気を出そうとしていることだけは分かったから。


 やがて彼女は小さく息を吸った。


「真春君にもっと見てほしいんだと思う」


 心臓が跳ねた。


 一瞬、本当に呼吸が止まった気がした。


 見てほしい。


 その言葉だけが頭の中で反響する。


 友達として?


 クラスメイトとして?


 それとも――。


 そこまで考えて慌てて思考を止めた。


 駄目だ。


 勝手に期待するな。


 だが。


 それでも胸の鼓動は収まってくれなかった。


 前川さんは照れたように笑う。


「変だよね」


「いや……」


 言葉が続かない。


 続けられない。


 胸の奥が妙に熱かった。


「お母さんが真春君の話をするとき、すごく楽しそうだったから」


 前川さんは膝の上で手を握る。


「小さい頃の話とか、家での話とか」


「うん」


「私の知らない真春君をたくさん知ってた」


 その声は少しだけ寂しそうだった。


「当たり前なんだけどね」


 苦笑する。


「家族なんだから」


 そう言ってから視線を落とす。


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


 だけど、その表情が胸を締め付けた。


「でも羨ましかった」


 小さな声。


 だけど不思議なくらい耳に残った。


「羨ましい?」


「うん」


 前川さんは頷く。


「私ももっと真春君のこと知りたいって思った」


 胸の奥が熱くなる。


 嬉しい。


 ただそれだけのはずなのに。


 それ以上の感情が込み上げてくる。


 こんな風に言われて嬉しくないはずがない。


 でも。


 それを素直に受け取るのが怖かった。


「それにね」


 前川さんは小さく笑う。


「お母さんが真春君のこと話してる時、すごく楽しそうだったから」


「うん」


「なんだか負けた気分になったの」


「負けた?」


「うん」


 照れくさそうに笑う。


「私の方が真春君のこと考えてると思ってたから」


 ドクン。


 心臓が大きく鳴った。


 その1言は反則だ。


 友達同士で言う言葉じゃない。


 少なくとも俺はそう思う。


 だから余計に苦しい。


 期待するな。


 勘違いするな。


 頭ではそう分かっている。


 なのに心が勝手に期待してしまう。


 前川さんの瞳が揺れる。


 数秒の沈黙。


 そして。


 彼女はさらに距離を縮めた。


 肩が触れそうになる。


 いや。


 もうほとんど触れていた。


 ふわりと甘い香りが届く。


 シャンプーだろうか。


 それとも香水だろうか。


 分からない。


 ただ、その香りだけで頭がぼんやりする。


 近い。


 近すぎる。


 胸が苦しい。


 心臓がうるさい。


 静かな部屋なのに、自分の鼓動だけが響いている気がした。


 前川さんも緊張しているのだろう。


 耳まで真っ赤だった。


 それでも逃げない。


 視線を逸らさない。


 真っ直ぐ俺だけを見ている。


「だから――」


 前川さんが小さく息を吐く。


 そして俺の肩にそっと手を置いた。


 身体が震える。


 彼女も震えていた。


 怖いのは俺だけじゃない。


 前川さんだって勇気を出している。


 それが分かる。


 だから余計に胸が締め付けられた。


 前川さんは俺を軽くソファの上へ押し倒した。


「えっ――」


 声にならない。


 気付けば仰向けになっていた。


 目の前には前川さんがいる。


 髪が揺れる。


 長い睫毛が見える。


 白い肌が見える。


 潤んだ瞳が見える。


 全部見える。


 近すぎるから。


 もう、お互いの吐息が届く距離だった。


「少しくらい、私を特別扱いしてほしいな」


 その1言で思考が真っ白になる。


 何も考えられない。


 ただ前川さんしか見えない。


 彼女は恥ずかしそうに笑った。


 けれど視線だけは逸らさない。


 ゆっくり顔が近付いてくる。


 近付く。


 さらに近付く。


 睫毛が見える。


 唇が見える。


 息が掛かる。


 近い。


 近過ぎる。


 少しでも動けば触れてしまう。


 そんな距離。


 あと少し。


 本当にあと少し。


 唇が重なる寸前。


 なのに――。


「やっぱり、まだ早いかな」


 前川さんはそう呟いて、困ったように微笑んだ。


 まるで自分自身に言い聞かせるように。


 そして、ほんの少しだけ距離を取った。


 たった数センチ。


 それだけなのに。


 さっきまで届きそうだった距離が、途端に遠く感じた。


 触れられそうで触れられない。


 届きそうで届かない。


 その数センチが、今の俺たちそのものだった。


 近いはずなのに。


 誰よりも近いはずなのに。


 まだ恋人じゃない。


 だから届かない。


 あと1歩。


 本当にあと1歩なのに。


 その1歩だけが、どうしようもなく遠かった。

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