第51話 母が帰った瞬間、前川都子と2人きりになった
「それじゃあ、私はそろそろ帰ろうかしら」
お母さんが突然そんなことを言い出した。
「え?」
俺は思わず声を漏らす。
隣に座っていた前川さんも目をぱちくりさせていた。
「お、お母さん、帰るの?」
「うん」
お母さんはあっさり頷く。
「だって、これ以上、若い2人の邪魔をするわけにはいかないもの」
「なっ!?」
「えぇっ!?」
俺と前川さんの声が綺麗に重なった。
前川さんは顔を真っ赤にして俯いてしまう。
「あらあら」
お母さんは楽しそうに笑うだけだった。
どう見ても面白がっている。
「私は空気を読む大人なの」
「絶対違うだろ……」
「ふふっ」
お母さんは立ち上がる。
そして廊下へ向かうと、あらかじめ用意していたらしい帰宅用のバッグを手に取った。
最初から帰るつもりだったのか。
「本当に帰るんだね」
「ええ。流石に主人のこともあるし」
お母さんはそう言いながら靴を履く。
前川さんも慌てて立ち上がった。
「あ、あの、お母さん。本当にありがとうございました」
前川さんは丁寧に頭を下げる。
「こちらこそ。都子ちゃんとたくさんお話できて楽しかったわ」
「私もです」
前川さんは嬉しそうに微笑む。
お母さんも満足そうだった。
「都子ちゃんは本当にいい子ね」
「そ、そんなことないです」
「真ちゃんには少しもったいないくらい」
「おい」
「ふふっ」
最後まで人をからかう気満々らしい。
玄関のドアに手を掛けたお母さんは、そこでふと振り返った。
そして意味深な笑みを浮かべる。
「まあ、この後どうするかは都子ちゃん次第よ」
「えっ?」
前川さんが目を丸くする。
お母さんはさらに続けた。
「真ちゃんは受け身だからね。超がつくほどね」
「余計なこと言うなって」
「伝言は以上です」
お母さんは楽しそうに笑う。
そして、
「じゃあ、2人とも楽しんでね」
そう言い残して玄関のドアを開けた。
風がふわりと吹き込む。
「またね、都子ちゃん」
お母さんは手を振りながら外へ出ていった。
そしてドアが閉まる。
――カチャリ。
たったそれだけの音だった。
だが、その瞬間。
部屋の空気が変わった気がした。
「……」
「……」
言葉が出ない。
聞こえるのは玄関に置かれた小型の置時計の秒針だけ。
カチ、カチ、カチ――。
妙に大きく聞こえた。
俺は無意識に唾を飲み込む。
前川さんも同じだったのか、小さく喉が動くのが見えた。
目が合う。
そして、ほぼ同時に逸らした。
「……」
沈黙。
気まずいわけではない。
嫌な空気でもない。
むしろ逆だ。
意識してしまう。
今、この家には俺と前川さんしかいない。
その事実を。
学校ではない。
教室でもない。
駅前でもない。
誰かが通り過ぎることもなければ、友達が話しかけてくることもない。
2人きり。
しかも普段なら前川さんが帰宅している20時を過ぎた時間。
心臓が妙に落ち着かなかった。
前川さんを見る。
制服姿の前川さんは、さっきまでと何も変わっていない。
ロングの黒髪。
整った横顔。
少し赤く染まった頬。
けれど。
お母さんがいた時とはまるで違って見えた。
前川さんも落ち着かないのか、膝の上で指先をもじもじと動かしている。
そして。
ちらり。
俺を見る。
目が合う。
「あっ……」
前川さんが慌てて視線を逸らした。
俺も反射的に逸らす。
また沈黙。
数秒。
いや、数10秒だったかもしれない。
やがて前川さんが小さく笑う。
「なんだか……変だね」
「え?」
「さっきまで普通だったのに」
前川さんは照れたように頬を掻いた。
「急に緊張しちゃった」
そう言ってはにかむ。
その笑顔を見た瞬間。
俺の心臓はさらに大きく跳ねた。




