第32話 初めての前川さんの温もり
元カノとの決別を果たした日の昼休み。
俺は前川さんと一緒に屋上にいた。
フェンス越しに吹き抜ける春風が、制服を優しく揺らす。
昼の日差しは暖かく、青く澄んだ空がどこまでも広がっていた。
遠くから運動部の掛け声や生徒たちの笑い声が微かに聞こえる。
けれど、この屋上だけは別世界みたいに静かだった。
俺は古びた青いベンチに腰を下ろす。
一方、前川さんはすぐ隣に立ったまま、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
風に揺れる艶のある黒髪。
陽の光を受けた白い肌は透き通るように綺麗で、長い睫毛の影が頬に落ちている。
大きな瞳には不安と優しさが滲んでいた。
まるで、俺の小さな変化すら見逃したくないと言わんばかりに。
その視線だけで分かる。
前川さんは、ずっと俺のことを気に掛けてくれていたのだと。
「今日の朝に元カノの相談に乗れないこと、今後、関われないことを伝えてきたから」
俺は前川さんに朝の出来事を報告する。
教室では話せなかった。
周囲に聞かれたくなかったし、なにより――前川さんにはちゃんと自分の口で伝えたかった。
だからこうして、2人きりになれる昼休みの屋上で話している。
「……大江君」
前川さんが小さく俺の名前を呼ぶ。
その声は驚くほど柔らかくて、張り詰めていた心にじんわり染み込んでくるようだった。
前川さんはゆっくりと俺の隣に腰を下ろす。
横顔を見ると、どこか泣きそうな表情をしていた。
まるで自分のことみたいに、俺の痛みに胸を痛めているみたいだった。
「……ありがとう。それと、ごめんね」
「え? 」
次の瞬間。
ふわり、と柔らかな感触が横から俺を包み込んだ。
「え!? ま、前川さん!? 」
前川さんがそっと俺に抱き付いていた。
甘いシャンプーの香りが鼻先をくすぐる。
それに加えて、花みたいな柔らかな香りがふわっと漂い、思わず頭が真っ白になる。
華奢な肩。
制服越しでも伝わる柔らかな体温。
前川さんは壊れ物を扱うみたいに、優しく、それでいて離さないように俺を抱き締めていた。
まるで、傷付いた心を包み込むように。
冷え切っていた胸の奥が、少しずつ温められていく感覚があった。
「辛かったよね? 勇気が必要だったよね? 私のためにありがとう」
前川さんは俺の耳元で、消えてしまいそうなくらい小さな声で囁く。
責める言葉は一切ない。
どうしてもっと早く言ってくれなかったのとか、そんな言葉もない。
ただ俺の気持ちだけを考えてくれているのが伝わってきた。
前川さんは本当に優しい。
自分だって不安だったはずなのに。
それでも真っ先に俺を気遣ってくれる。
俺が苦しかったことも、悩んでいたことも、全部分かった上で受け止めてくれているみたいだった。
こんな風に誰かに優しくされたのは、いつぶりだろう。
張り詰めていた気持ちが、少しずつ溶けていく。
「私にできるのは、これぐらいだから。ごめんね」
前川さんは俺を労わるように、そっと頭を撫でる。
細く綺麗な指先が、毛並みに沿って優しく髪をなぞっていく。
その手つきはどこまでも丁寧で、まるで大切なものを扱うみたいだった。
撫でられるたびに、胸の奥に溜まっていた苦しさや疲れが少しずつほどけていく。
大丈夫。
1人じゃないから。
私は絶対に裏切らないから。
前川さんの温もりが、そう語り掛けてくれている気がした。
その優しさが――今の俺には痛いほど心地よかった。




