第39話 蜘蛛
誰一人として、その場から動けなかった。耳障りな音だけが、静まり返った広間に響き続ける。
ガリ……ガリガリ……。
やがて、廊下の奥の暗闇に赤い光が灯った。
一つ。二つ。三つ――。いや、違う。八つ。
闇の中で八つの赤い複眼が妖しく輝き、ゆっくりとこちらを見据えていた。
「な、なんだ……あれは」
誰かが掠れた声を漏らす。その直後だった。
ドォォンッ!
壁が内側から弾け飛び、砕けた石材が広間へ降り注ぐ。土煙の向こうから、巨大な影が姿を現した。人の背丈を優に超える漆黒の胴体。
槍のように鋭く伸びた八本の脚。黒曜石のような外殻を軋ませながら、ゆっくりと広間へ踏み込んでくる。
口元では無数の牙が不気味に擦れ合い、その隙間から粘つく白い糸が床へ垂れ落ちていた。
「魔物だぁぁぁ!」
悲鳴が上がる。
貴族たちは我先に出口へ殺到し、豪奢な椅子を倒し、食器を踏み砕きながら逃げ惑う。広間は一瞬で披露宴とは思えない地獄絵図へと変わった。
だが、巨大蜘蛛は逃げる男たちを追おうとはしない。八つの複眼が広間をゆっくりと見渡す。
若い令嬢。侍女。そして、花嫁衣装を纏ったシノ。
その視線は若い女性の姿を追うたびに、わずかに揺れた。
「……女を見ている?」
俺が呟いた瞬間だった。
ギチッ――。
牙を打ち鳴らし、巨大蜘蛛が石床を砕く勢いで跳ねる。
「きゃあああっ!」
飛び掛かった先にいたのは、逃げ遅れた若い貴族の令嬢だった。
令嬢は悲鳴を上げながら後ずさるが、足がもつれて倒れ込む。
「助けて!」
誰も間に合わない。巨大な顎が開き、その身体を一瞬で呑み込んだ。
骨の砕ける鈍い音が広間に響く。鮮血が純白の床へ飛び散り、辺りを赤く染めた。
悲鳴と嗚咽が広間を満たす。蜘蛛はゆっくりと獲物を咀嚼すると、腹を大きく脈打たせた。
やがて口元が開く。吐き出されたのは血肉ではない。
白い糸だった。
柔らかな光沢を放つその糸は、血に濡れた魔物から生まれたとは思えないほど美しい。細く、しなやかで、高級な絹そのものだった。
「……あの糸」
年配の貴族が思わず声を漏らす。その隣にいた豪奢な衣装の男が目を見開いた。
「まさか……」
男は信じられないというように一歩前へ出る。目は蜘蛛の吐いた糸に釘付けになっていた。
「どうした」
「見覚えがあるのか」
問われた貴族は、乾いた唇をゆっくりと動かし、震える指が白い糸を指し示す。
「あれは……レーヴ侯爵が売っている絹と同じです」
全員の視線がレーヴへ向く。
「何を馬鹿なことを!」
レーヴが怒鳴る。だが、その声はどこか上擦っていた。
「私は何度も侯爵と取引をしています。光沢も、手触りも、質感も見間違えるはずがありません」
「偶然似ているだけだ!」
レーヴが叫ぶ。しかし、その言葉を遮るように別の貴族が口を開いた。
「そういえば……」
青ざめた顔でレーヴを見つめる。
「男爵が急に財を成したのは、あの絹を扱い始めてからだったな」
「その頃から側室も次々と入れ替わっていた」
「病死したと聞かされていたが……」
一人が呟けば、次々と記憶が繋がっていく。
「いや……」
「違う」
「帰ってこなかったんだ」
静まり返った広間に、その言葉だけが重く響いた。俺の脳裏にも地下牢の光景が浮かぶ。そしてニナが言っていた。
『何かが外に運ばれる様子はありません』
全部、繋がった。若い女を集めていた理由。側室が何人も姿を消した理由。
そしてレーヴが莫大な財を築いた理由。絹は――人の命から紡がれていた。
「ち、違う……!」
レーヴの声が震える。
「証拠などない! 私は何も知らん!」
だが、その叫びに耳を貸す者は誰もいなかった。その時だった。
ギチッ――。
巨大蜘蛛が再び牙を鳴らす。
八つの複眼がゆっくりと動き、広間に残る若い女性たちを一人ずつ映していく。
地下で餌を失っていた魔物は、新たな獲物を前に飢えを剥き出しにしていた。
シノを捉えた複眼が怪しく光る。
さらに、その隣で震える令嬢へと視線が移る。
男には目もくれない。若い女だけを選んでいる。不幸にも、地下牢から元側室を連れ出してことで追ってきてしまった。
「来るぞ!」
誰かの叫びと同時に、巨大蜘蛛は床を砕きながら再び跳躍した。




