第37話 地下牢の証人
会場のざわめきは、一向に収まる気配を見せなかった。
苦々しい表情を浮かべた神官は、一度レーヴへ視線を向けかけたものの、思い直したようにフラウへ目を移す。その瞳には迷いと畏れが入り混じり、まるで自らの裁定が聖教の意に背いていないかを確かめるようだった。
やがて神官はゆっくりと壇上の中央へ進み、居並ぶ貴族たちを静かに見渡すと、大きく息を吸い込んだ。
「此度の婚姻は、正式な異議申し立てを受理したことにより――白紙とする」
その宣言が広間へ高らかに響き渡る。
直後、張り詰めていた空気が弾けるように、会場は大きなどよめきに包まれた。
神官はなおも何度もフラウへ視線を送り、その反応を窺い続けている。
まるで、己の判断が国教の総意と食い違っていないことを確認しなければ安心できないかのようだった。
そんな中、最初に態度を立て直したのはレーヴだった。
一歩前へ踏み出すと、神官をさりげなく押しのけるようにして壇上の中央へ立ち、再び場の主導権を握ろうと穏やかな口調で語り始める。
「いやはや……皆様、お見苦しいところをお見せしました」
先ほどまでの狼狽は巧妙に押し隠され、侯爵らしい落ち着きを取り戻していた。
「少々、婚姻を急ぎすぎてしまったようです。国教の裁定は真摯に受け止めたいと思います」
そう言って、何事もなかったかのような柔らかな笑みまで浮かべてみせる。
「そして、この若者とも十分に話し合い、お互いが納得できる形を探っていきたいと思います」
どの口が言う。
シノが駄目なら別の娘を探し、同じことを繰り返すだけだ。この男は何一つ反省などしていない。だが、その本心を知る者は、この場にはほとんどいなかった。
なればこそ、お前がこれまでやってきたことを、白日の下に晒す必要がある。入口付近に何度も目をやり、証人たちの姿を探す。
俺の焦燥とは裏腹に、レーヴの穏やかな物腰に当てられたのか、貴族たちの間にも次第に、
「侯爵も譲歩したのなら……」
「ここで収めるのがよいのでは」
そんな空気が流れ始める。レーヴの口元にも、わずかな余裕が戻った。
その時だった。
「――まだ、終わっていません!」
鋭く張り詰めた声が広間へ響き渡る。その場にいた全員が、一斉に会場の入口を振り返った。そこに立っていたのは、白と黒を基調としたメイド服のニナだ。
来た――!
ニナの横には、その肩を借りるようにして、一人の痩せ細った女性が立っている。衣服は泥と血で汚れ、足取りも覚束ない。
一瞬で会場が静まり返る。肩で荒く息をしながら、メイドは声を張り上げた。
「この屋敷の地下牢には、侯爵がこれまで迎えた側室たちが監禁されていました!」
その一言だけで、広間の空気は凍りついた。ニナは女性を支えながら壇上へ歩み寄ってくる。しかし、その途中でも何度も背後を振り返り、何かを警戒するように視線を巡らせていた。
その焦燥は隠しきれていない。
壇上の前まで辿り着くと、再び神官へ向かって叫ぶ。
「この屋敷の地下牢を調べてください!」
息を切らせながら、隣にいた女性をそっと前へ押し出した。
「この方は……地下へ監禁されていた側室のお一人です」
明るい照明の下で改めて見るその姿は、地下牢で目にした時以上に痛々しく映った。頬は痩せこけ、手首には縄が深く食い込んだ痕が生々しく残り、長い拘束の日々を物語っている。
「……なっ!」
レーヴの顔から、一瞬で血の気が引いた。その反応だけで十分だった。
ニナに背中を押されるようにして、女性は震える唇をゆっくりと開いた。
「わたし……いえ、わたしたちは侯爵様の命令で地下へ閉じ込められていました」
か細い声が広間に静かに響く。嗚咽を必死に堪えながら、女性は言葉を続けた。
「逆らえば食事を与えられず……時には、拷問のようなこともされました……」
「ほかの娘は、一番奥の部屋に連れて行かれ……そのあと、姿を見たことがありません……」
最後まで言い切ることはできなかった。震える肩を押さえながら俯き、堪えきれなくなった涙が頬を静かに伝い落ちる。
広間には、重苦しい沈黙が流れた。
「ち、違う!」
その静寂を切り裂くように、レーヴが叫ぶ。額から噴き出した汗が頬を伝い落ち、その表情からは先ほどまでの余裕が完全に消え失せていた。
「こいつらが勝手に言っているだけだ! 証拠など何一つない!」
叫び声は必死だったが、もはや言い訳にしか聞こえない。貴族たちの視線も、先ほどとは明らかに変わっていた。しかし次の瞬間、そのレーヴの表情が絶望へと塗り替わる。
「な、なぜ……あいつを連れ出した!」
その叫びには怒りではなく、隠しきれない恐怖だけが滲んでいた。
「あれが……出てくるぞ!」
声は悲鳴へと変わる。
「地下を開けたのか……!」
支離滅裂な叫びに、広間の誰もが困惑した。
俺は眉をひそめる。その隙を見計らったように、ニナが素早く駆け寄り、小声で耳打ちしてきた。
「地下の奥にいた厄介なのが来ます。撒こうとしましたが……追ってきています」
早口で続けられる。
「何かに反応しているみたいです。あまり、時間がありません」
その声には、普段の冷静さはなく、ニナらしからぬ焦りが滲んでいた。




