第35話 好きな人がいます
ニナと別れた後、会場へ続く大扉の脇に身を寄せる。
俺は仮面を着け、フラウはローブのフードを深く被って息を潜めた。
ここからでは中の様子が分からないという懸念があったが、
「――急造なので、わたしから離れすぎると、聞こえなくなりますが」
そう言って取り出したのは、二枚の鳥の羽だ。
片方を魔術で浮遊させながら、最後に会場へ入り込んだ使用人の腰へそっと貼り付けていた。手元に残したもう一枚の羽から、会場の音が聞こえてきた。
管楽や杯の触れ合う音に混ざり、貴族たちの笑い声が響いている。
シノがすぐ近くにいるのに、その姿を確認できないのがもどかしい。
落ち着こうとして、大きく息を吐き出す。
……ニナは上手くやれているだろうか。
本当はフラウとニナの二人で地下へ向かわせたかった。
だが、会場の様子を知るにはフラウの魔術が必要だったため、ニナは一人で向かうことになった。
本人も「これは私の仕事なので、元よりそのつもりです」と言っていたが、心配しないわけにはいかない。
今日、この場でレーヴの悪事を暴くためにも、順調に進んでいてほしい。
……そんな思考が、どれほどの時間、頭を占めていただろうか。
俺の胸中をかき乱すように、手元の羽からひときわ大きな拍手が響いた。
『皆様、お静かに』
低くよく通る男の声が会場全体に響き渡り、流れていた管楽が止まる。
『ただいまより、レーヴ侯爵と新たに側室となるシノの婚姻の儀を執り行います』
思わず拳を握り締める。
「始まったか……」
「そうですね」
こんな時であっても、フラウはいつも通りだった。
羽越しに、硬い靴音が聞こえる。
「"慣例"で貴族の婚姻を承認する時は、王宮から来た国王代理人の立ち合いが必要です」
なるほど。これから発言する者が誰なのかが、よく分かった。
それに加え、王宮の人間は建前的な参加だと窺えた。
『レーヴ侯爵よ。本婚姻に偽りなく、シノを側室として迎えることを誓うか』
一拍の静寂。
そして、いつか聞いた男の声が響く。
『誓おう』
自信に満ちた声色だった。
まるで、自分の勝利を疑ってもいないかのように。
続けて、代理人の声がした。
『では、シノよ』
胸が締め付けられる。
『汝は侯爵を主と認め、汝の全てを生涯捧げることを誓うか』
「……はい。誓います」
ゆっくりとした、か細い声だった。
『ふむ。汝は己の自由、名誉、それら全ても侯爵に捧げるか』
「……捧げます」
今にも飛び出したい衝動に駆られる。
頭では分かっている。
ニナを待ってからだ、と。
それでも、今すぐにでも侯爵を八つ裂きにしたい、どす黒い感情が胸の奥から溢れ出る。
代理人は続けた。
『それではシノよ。宣言しなさい。この場にいる全員が証人となる』
『レーヴ侯爵は汝の上に立つ御方である。つまり、侯爵の所有物となり、その意思に逆らわぬ、と』
沈黙が会場を包む。
貴族たちは当然のように待っているのだろう。
誰一人として疑問に思わない。
それが、この国の"常識"だからだ。
『わ、わたしは……レーヴ様の所有物となり……』
無理やりにでも口を開こうとするシノの姿が目に浮かぶ。
だが、そこから先の言葉は続かなかった。
その沈黙を埋めるように、レーヴが口を開いた。
『我が妻はこのような場に不慣れで緊張している。宣言は難しいようだが、身体で示すことを先にしてはどうか?』
笑みを含んだ声だった。
『うむ。妻を気遣う侯爵の心意気、実に良し』
『それでは、レーヴ侯爵。妻となるシノへ誓いの口づけを』
静寂の中、足音が響く。
一歩、二歩と、レーヴがシノへ近づいていくのが分かった。
ニナ……まだ、なのか。
「……みません」
『ん? どうした、我が妻よ?』
シノの小さな声が聞こえた。
意識を向けていなければ、聞き逃してしまいそうなほど弱々しい。
「わたしは……この婚姻を望みません」
外からでも会場の空気が凍りつくのを感じた。
「ずっと……ずっと前から、好きな人が……います」
最後は涙声になっていた。
シノから出たその一言が、俺の中で何かを弾けさせた。
――――ドゴォォォン!!
轟音とともに、加護を纏わせた俺の蹴りが、重厚な大扉を粉砕した。




