第34話 白い糸の先
足早に、それでいて誰にも見つからないよう、地下牢に向かう。
何度も頭の中でイメージを繰り返した。この日のために。
使用人たちは、婚姻のお披露目が行われる会場に駆り出されている。
何年も情報を集め、侍女に紛れ込み、誰がどこを巡回するかまで調べ尽くしてきた。
地下牢の鍵も盗み出し、外の者に複製を作らせた。
一度ですべてを複製することは困難で、危ない橋を何度も渡ってきた。
何度も、何度も、繰り返し、この日のために準備してきた。
あとは――
踏み込んで助けるだけだ。
地下牢へ続く鉄扉の前に立つ。
覚悟はできているが、一人で進むことに心許なさを覚える。
それでも、自ら言い出して決めたことだ。
腹を括る。
腰から一本の鍵を取り出し、静かに鍵穴へ差し込む。
生ぬるい空気が肌に触れる。
その後のことは、リオスたちに委ねるしかない。
どう転ぶか分からない。
万全な状況とは程遠い。
それでも、自分の役目を全うするには、この好機を逃すわけにはいかない。
小さな明かりを頼りに、石造りの階段を一段、また一段と下りる。
湿った空気に混じる独特の臭い。何度嗅いでも慣れることはない。
やがて、最下層に足を踏み入れる。
鉄格子が並ぶ場所まで進もうとしたところ、顔に何かが触れた。
反射的に身を引く。
白い糸だった。
「……っ」
取り払おうと指で摘まむ。
糸は細い。
それなのに簡単には切れず、強度と粘度を保っている。
天井や壁に視線を向ける。何本もの白い糸が張り巡らされていた。
つい最近張られたのだろうか。
妙な艶を感じる。
以前にはなかった変化に気を取られていると、
「……だれ?」
掠れた声が聞こえた。
奥へ歩を進めると、暗闇の端で生気を失った瞳がこちらを向き、視線が交錯する。
少しの沈黙の後、
「……今日、出られるの?」
あの時、外に出せなかった元側室だ。
「はい。遅くなりましたが、ようやく助けにきました」
信じられないものを見るような目で、私を見つめている。
「本当に……?」
その問いに頷く。
「今、鍵を開けます」
乾いた音が響き、錠が外れた。私は鉄格子をゆっくり押し開く。
「念のため確認させてください。他に捕らわれている人はいますか?」
「この前まで……いたと思う。でも、もう……だめ」
瞳には失意が浮かんでいる。
「侯爵も、ぜんぜん降りてこなくなった。……それは、用事がなくなったからだと思う」
そうか。
もう一人は助けることができなかったか。でも、今は感傷的になるな――。
「たぶん、奥の部屋に連れて行かれたのが最後……だと思う」
そう言って視線を向けた先には、『何かある』と言っていた場所があった。
私はゆっくりと歩み寄る。
近づくにつれ、白い糸がやたらと目についた。
その先には、分厚い鉄扉が据え付けられている。
試しに鍵を差し込んでみるが、私が持つどの鍵も合わない。
そもそも蝶番の造りからして異様だった。
牢の扉とは比べものにならないほど巨大で頑丈だ。
使用人には預けていない鍵があるのだろうか……。
扉に耳を澄ませる。しかし、中からは何の音も聞こえない。
その静けさが、かえって不気味だった。
気になる。
だが、ここでこれ以上時間を使うわけにはいかない。
リオスたちのことも気がかりだ。
胸の奥に引っ掛かりを覚えながら、私は鉄扉から手を離した。
元側室のもとへ戻る。
「行きましょう」
体力が衰えているのか、足取りがおぼつかない。
肩を貸し、一緒に歩き出す。
カリ……。
階段を上ろうとした、その時だった。
何かを引っ掻くような小さな音が聞こえた気がした。
気のせいなのか確かめる猶予はない。
一段、また一段と支えながら階段を上る。
カサ……カサカサ……。
私は思わず息を止めた。
生き物の爪が石をなぞるような音が、下から聞こえてくる。
いや、それだけではない。
地下から離れているはずなのに、音は徐々に大きくなっていた。
そして、
ドォン!!
轟音とともに、地下牢全体と階段までもが、大きく揺れた。
その頃には、何本もの脚が床を這うような、不快な気配が確かに近づいてきていた。
「っ……急いでください!」
女性の身体を支えながら、一歩でも早く外へ出ようと促す。
――何かが、自分たちを追ってきている。
そう確信させるには、十分すぎる気配だった。




