第31話 婚姻の日
わたしと侯爵との婚姻を正式に承認する日がやってきた。
こんな日に限って、空はどこまでも青く晴れ渡っている。
厚いカーテンの隙間から差し込む朝日がまぶしく、わたしはゆっくりと目を開けた。
……ほとんど眠れなかった。
眠ろうと目を閉じても、考えたくない未来ばかりが頭をよぎる。
このあと王族の代理人や有力貴族たちの立ち会いのもと、婚姻は正式に承認される。
そうなれば、わたしは名実ともにレーヴ侯爵の側室となる。
もう後戻りはできない。
昨日、世話役の侍女は穏やかな口調で教えてくれた。
「承認の儀そのものは事務的な内容ですので、すぐに終わると思います。その後のお披露目の晩餐会のほうがお疲れになるかもしれません」
その言葉を思い出しただけで、胸が重くなる。
寝不足も重なり、頭には鉛でも詰め込まれたような重さがあった。
わたしはベッドの上で身体を丸め、小さく膝を抱える。
――今日になって侯爵が気を変えてくれないだろうか。
――婚姻を取り消すと言ってくれないだろうか。
そんな都合のいい奇跡を考えてしまう。あり得るはずもないのに。
自分でも馬鹿げていると思いながら現実逃避を続けていると、寝室の扉が控えめに叩かれた。
「シノ様。そろそろご準備のお時間です」
いつもの世話役の侍女だった。
この屋敷へ来てから、この人の態度は変わらない。
必要以上に優しくもなく、冷たくもない。
その変わらなさが、かえって現実を突きつけてくる。
「お加減はいかがですか?」
「……はい。特に変わりはありません」
嘘だった。
頭は重く、胸の奥は昨夜から締めつけられたままだ。
それでも、それを口にしたところで何かが変わるわけではない。
侍女は静かに純白のドレスを広げた。
陽の光を浴びたその白は、眩しいほど美しい。
その白さを見ていると、自分だけが汚れているような気持ちになった。
本来なら幸福を祝うための衣装。
けれど、わたしにとっては、幸福とはほど遠い衣装だった。
仕事をしているこの人を困らせたくはない。
わたしは重たい身体を起こし、ゆっくりと支度を始める。
不思議なものだ。
始めてしまえば身体は勝手に動く。
顔を洗い、身支度を整え、気づけば残るのは着替えだけになっていた。
侍女に手伝われながらドレスへ袖を通す。
布地は柔らかく、それでいて驚くほど重い。
肩を包み、腰を締められ、背中の紐が丁寧に結ばれていく。
「少し顎を上げてください」
いつかと同じ言葉に促されるまま、静かに顔を上げた。
櫛で髪を整えられ、首筋にはほのかに甘い香油が塗られる。
耳には小さな宝石のイヤリング。
最後に白い手袋をはめられ、鏡の前へ立たされた。
鏡の中には、侯爵夫人らしい女性が立っていた。
けれど、その顔だけは、生気を失った死人のようだった。
侍女は満足そうにうなずく。
「それでは、参りましょう」
わたしは静かに立ち上がった。
案内された先は、先日訪れた応接間だった。
重厚な扉の向こうからは、男たちの笑い声が漏れてくる。
どうやら関係者はすでに揃っているらしい。
侍女が扉を叩く。
中で控えていた使用人へ到着を伝えると、部屋は一瞬で静まり返った。
「それでは、新たな側室となる新婦のご入場です」
その声を合図に、扉がゆっくりと開かれる。
わたしは小さく息を吸い、静かに歩き出した。
部屋に並ぶ人々。
豪奢な衣装。
宝石。
勲章。
今まで生きてきた世界とは、何もかもが違う。
この日のために何度も礼儀作法を叩き込まれた。
笑顔の作り方も練習した。
……ちゃんと笑えているだろうか。
ぎこちない笑みを顔へ貼り付け、お辞儀をする。
誰一人として、わたし自身を見ている者はいない。
見られているのは、わたしではない。
侯爵家へ迎えられる「女」という商品だけだった。
レーヴの隣へ腰を下ろすと、進行役が儀式を始める。
内容はほとんど耳に入らない。
王族の代理人が形式どおりの言葉を並べ、婚姻の確認を進めていく。
やがて、その視線がわたしへ向けられた。
「――では、新たに側室となるシノよ。此度の婚姻に異議はないということで間違いないか?」
王宮の紋章を胸に付けた男が、厳粛な声で形式どおりの問いを投げかける。
「……はい。異議は……ありません」
答えた瞬間、また一つ、自分の心が死んだ気がした。
「承知した。それでは続いて、この婚姻に異議、または意見のある者はいるか」
当然、誰も手を挙げない。
そう思っていた。
「発言よろしいですかな」
一人の老人が立ち上がる。
白く立派な髭を蓄えた伯爵だった。
「此度迎える婦人は実に美しい。この母体ならば授かる御子も期待できますな。もし男児でしたら、ぜひ我が家の娘婿に」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
しかし、次の瞬間。部屋中が笑いに包まれた。
……そういうことなのだ。
この人たちは、もうわたしの未来を見てはいない。
見ているのは、わたしのお腹に宿るかもしれない子供だけだ。
レーヴの子を産み、その子が優秀なら家同士の利益になる。
それだけだった。
「おいおい、ナント伯爵。まだ気が早いですぞ」
王宮の役人が苦笑しながらたしなめる。だが、本気で咎める気などない。
周囲も笑いながら続けた。
「晩餐会では、ご息女の売り込みが始まりそうですな」
「侯爵家の跡継ぎ候補ですからな」
「楽しみですなぁ」
レーヴも満更ではない様子で胸を張る。
「ははは。先の話は、その時にいたしましょう。ただ、このレーヴも期待に応えられるよう励ませていただきますぞ」
再び笑いが起こる。
「新しい側室殿も大変だ。レーヴ侯爵は夜も豪傑だからな。辛くなったら儂のところへ来ても構わんぞ。その時は、今日より胸元の開いたドレスでな」
下卑た笑い声が部屋に響いた。
わたしは笑わなければならない。頬が引きつる。
口角をほんの少し持ち上げるだけなのに、こんなにも苦しい。
胃の奥から酸味が込み上げ、吐き気が喉元までせり上がってくる。
それでも、笑う。笑わなければならない。
ここで顔を曇らせれば、「侯爵家の側室として相応しくない」と言われるだけだから。
子供の頃から教えられてきた。王族や貴族は、国を支える尊い存在なのだと。
だから立派な屋敷に住み、美しい服を着て、豪華な食事を口にする。
それだけの責務を背負っているのだと。
でも、今ここにいる人たちは違った。肩書きを脱げば、欲望を酒の肴に笑い合う男たちでしかない。
女を値踏みし。生まれてもいない子供の価値を語り。
その未来さえ、自分たちの利益に変えようとしている。
これが、貴族たちの正体なのだろうか。
「――では、異議なしと認める」
王宮の代理人が咳払いを一つして空気を整える。
先ほどまでの下品な笑いなど、最初から存在しなかったかのように、厳かな空気が戻っていく。
「レジディア国王に代わり、此度の婚姻を正式なものとして承認する」
大きな拍手が部屋を満たした。その音だけが、やけに遠く聞こえる。
祝福の拍手。
本来なら幸福を願う音色のはずなのに、わたしには牢獄の扉が閉まる音のようにしか聞こえなかった。
「なお、誓いの儀は、この後の晩餐会で執り行う」
その宣言をもって、承認の儀は幕を閉じる。周囲では貴族たちが再び談笑を始め、次の晩餐会の話に花を咲かせていた。
誰も気づかない。
たった今、一人の人生が終わったことに。誰も気づこうともしない。
わたしは静かに視線を落とした。膝の上で握り締めた手は、白くなるほど力が入っていた。
拍手は、まだ鳴り止まない。その音だけが、どこか遠い世界の出来事のように聞こえていた。
――ああ。
わたしの人生もまた、一つの幕を閉じたのだ。




