第29話 逃がしません
あの後、ニナは別れ際に
「ところで、シノ様の婚姻の場は、明後日に開かれることになりました」
その言葉を聞いた瞬間、思考が止まった。
ゆっくりしようとは考えていなかったが、少なくとも、ある程度の猶予はあると思っていた。
急ぐ必要がある。
次の日、急いで宿に戻り、フラウに世話になった礼を伝えようと訪ねたところ――
「今日は髭にしますか? 湿疹にしますか? それとも……下の毛が気になってきましたか……?」
目を輝かせながら、そんな質問をされた。
昨日の出来事もあり、フラウに事情を話して、すぐに向かうための準備をしたいと考えていた。
そのため、施術の提案にはあまり気分が乗らなかった。
「す、すまん。今日は話だけしたくて……」
「あら? 乙女の部屋に入ってきているのに話だけですか……なんだか都合のいい時だけ、わたしを"使おう"としているみたいですね」
なんという人聞きの悪いことを言うのだろうか。
毎回、部屋に入るのを遠慮しているところを、強引に勧めてくるくせに。
しかし、言われてみれば、フラウが特殊な魔術行使にのめり込んだきっかけは俺にある。
「わ、わかった。今日は体の毛にしてもらおうかな」
それを聞いて、フラウは露骨に喜んだ。
「いいですね。それでこそリオスです!」
上裸になり、いつものようにベッドで膝枕をされる。
この時間の会話に、心地よさを感じ始めている自分がいた。
「では、やっていきますね」
フラウの顔との距離は相変わらず近い。
火針が打たれ、ジュッ、ジュッと音がしていく。
よかった……やっぱり、髭よりは痛みがマシだ。これなら今後のことも話せる
「フラウ、話があるんだ」
そう告げたが、彼女は既に別世界へいっている。
指先で俺の胸を撫でながら詠唱を行い、火針を打った後は横目で観察している。
時々、法衣に包まれた華奢な身体をよじらせていた。
「あ、あのー。フラウ?」
フラウは我に返った
「あ、どうしましたリオス? 痛かったですか? それとも、痛みと熱が物足りなかったですか」
「私にはわかっていますよ」と言わんばかりの表情だったが、微塵も伝わっていなかった。
「いや、そうじゃなくて。実は前に話したことなんだ。 どうやら、レーヴによる婚姻が早まるらしい。 だから、明日には乗り込もうと考えている」
俺の身体に覆い被さりつつある人物へ用件を伝える。
「だから……これまで本当に助かった。 フラウがいなければ、俺は見た目も聖遺物も、どうにもならないままだった。 本当に――ありがとう」
彼女の献身には感謝しかない。行き詰まっていた俺に打開策を与えてくれた存在だった。
正直、ここ最近は様子がおかしいが、これからも協力し合える関係でいられたらどれだけいいだろうか。
そう考えたのは一度や二度ではない。でも、ここから先は危険が伴う。
この少女を俺の都合で貴族とのいざこざに巻き込むことは、あってはならない。
だが、それに対する反応は意外なものだった。
「もちろん、私も連れて行ってくれますよね?」
……なぜ、そうなる。
混乱した考えをまとめようとしているのに、絶妙なタイミングで打たれる火針の痛みが思考を遮る。
「フ、フラウ? ここから先は危険なんだ。貴族を相手取る以上、何が起こるか分からな……ぁあつっ!」
先程までの火針よりも、強い痛みが走った。
え? 意図的……に?
なんか……怒ってる?
恐る恐るフラウの表情を窺うと、
「リオス……あなたは用が済んだ女には飽きて、餌をやらない人間でしたか……これは、いけませんね……」
発言とは裏腹に、やはりどこか嬉しそうな声だった。
「わたしに感謝しているなら、大人しく連れていきなさい」
背筋がぞくりとする。
微笑んでいるはずなのに、その瞳だけは獲物を逃がさない捕食者のようだ。
甘く響く声なのに、首筋に冷たい蛇が巻き付いたような息苦しさを覚えた。
こうなってしまうと、観念するしかない。
「わ、わかった。 じゃ、じゃあ――また助けてもらおう……かな?」
あまりの迫力に、こっちがしどろもどろになってしまう。
「いい心がけです。 リオス、魔術の奇跡はあなたと共にあります」
こうして押し切られた俺は、フラウによる施術が終わった後、考えている段取りを共有した。
それを聞いたフラウは
「それであれば、なおさら、わたしが必要ですね」
意味深な笑みを浮かべていた。




