第26話 シノ
村を出て、侯爵の屋敷に来た時のこと。
わたしは侍女に案内され、長い廊下を歩いている。
磨き抜かれた床には天井の燭台が映り込み、歩くたびに自分の姿まで揺れて見える。
村で着ていた質素な服は、この屋敷ではあまりにも場違いだった。
「こちらでございます」
侍女が開けた扉が開いた瞬間、思わず息を呑んでしまう。
赤
青
黄
深い翠
夜会用と思われる華美なものから、淡い色の軽やかなものまで、まるで花畑みたいに吊るされている。
金糸の刺繍
真珠の飾り
どれもが、これまでの自分の人生とは無縁の品だった。
「……ひとつ選べば……いいですか?」
勝手がわからず、無意識に掠れてしまった声で尋ねると、侍女は微笑んだ。
「平服も必要になりますので五~六着は選ばれるのがいいかと」
その言葉に、ドレスに触れようとした私の指は止まる。
この屋敷に一生いることが現実になったのだと、この時に悟った。
村での暮らしや、誰の許可もとらないで無造作に建てたリオスの小屋とは世界が違いすぎていた。
狭い小屋で身を寄せ合い、綺麗なのか汚いのかもわからなくなった、埃っぽい毛布に顔を埋めたくなった。
呆けていた私に向かって、侍女は
「こちらなど、よくお似合いになるかと。 婚姻の顔見せの場で着られては?」
それは白を基調にした、ドレス。
腰の辺りで柔らかく絞られ、胸元を静かに強調するように金糸の刺繍が施されている。
動きが悪くなった水車の歯車みたいに、私は
「それに……します」
と短く答えるだけで精一杯だった。
「かしこまりました。 他に平服を何着か選んでおきましょう。 希望はございますか?」
止まりかけている思考には難題だった。
平服ということは普段着だろうと理解したため
「……動きやすいもの……で」
それを聞いた侍女は僅かに眉をひそめた。
場違いな発言だったと、少し経ってから気づいて急に恥ずかしくなった。
結局、平服も侍女に勧められたものを、そのまま選んだ。
促されるまま、髪を梳かれて香油を塗られる。平服に着替え、鏡を見る。
そこにいたのは、村で暮らしていた、わたしではなかった。
「とてもお似合いですよ」
ほんとうに、そうだろうか?違和感を感じるばかりだ。
侍女の言葉は右から左へ、ただ流れていった。
もう、リオスと過ごしていた自分はどこにもいないのだと、自覚してしまう。
息が詰まる時間が終わった後、寝室を案内された。
そこは寝室と言うには、あまりにも広い場所で清掃が行き届いている。
部屋に置かれているのは、大人二人がゆうに寝られるであろうベッド。壁際にも、一人で使うには広い机。リオスが使っていた作業台を思い出してしまうくらい、異様な存在感を放っているように見えた。
どこかで一息つきたい感覚になるが、どこにいても居心地が悪い。
それでも一番ましに思えた机の椅子に座ってみる。
いろいろな感情が頭を巡るが、どれも霧散していく。
そんな時、扉がノックされる。
なかなか誰も入ってこないなと思った時、自分が返事をしていないからだと、ようやく気付いた。
「ど、どうぞ!」
先程、案内をしてくれていた侍女だ。
こちらに頭を下げて入室すると
「レーヴ様がお呼びです。 ご案内します」
ついてくるよう促され、それに従う。
応接間のような場所に通され、無意識に背筋を伸ばす。
その先には、洗礼の日にわたしの将来を決めた男が、深紅の酒を傾けていた。
嫌な笑みと余裕に満ちた眼差しを向けられただけで肌が粟立った。
言葉にできない不安から服の裾をそっと握る。
淡い色の清楚な服。
露出は少ないのに、生地が柔らかすぎて身体の線を隠してくれない。
少し動くだけでも、胸元や腰の形が浮かび上がる頼りないもの。
「ほう……」
侯爵が小さく声を漏らした。
その一言で全身を舐めまわされたことが伝わる。
「よい見立てではないか。 我が妻よ」
胸の奥が冷たくなる。
わたしは返事をできないでいた。
「近くへきなさい」
低い声。
ゆっくりと歩き出す。
柔らかな布が脚へ絡みつくたび、自分の身体を侯爵の情欲に晒すために見せているようで気分が悪かった。
侯爵の前に立つ。突然、当然のように手を伸ばして肩から背中、そして腰と臀部を撫でるように触る。
身体は強張り、呼吸が浅くなる。
侯爵と視線が合うと
「……実に、いいじゃないか」
倍以上も年が離れている男は、人を見る目をしていなかった。
唇を嚙みしめていた私を見つめた後
「これから楽しみだよ。 ちゃんと俺に尽くしてもらわないとな」
顔を逸らす。直視できないでいた。
その言葉を聞いた瞬間、この人に所有されたのだと、嫌でも意識させられた。
胸を締め付ける現実に耐えるため、リオスとの日々を心の中で繰り返し思い返していた。




