エピローグ:春の風が運ぶもの(1)
夜の個室居酒屋は、ほどよく静かだった。
壁際の席で向かい合う健人は、半分残ったグラスを指先で弄びながら、ずっと同じ一点を見つめていた。
目の前には、林田がいる。
相変わらず妙に機嫌が良さそうで、けれど今日はいつもみたいにペラペラと喋らない。
たぶん、待っているのだ。あの夜、自分が投げかけた問いへの答えを。
「……なあ」
ようやく健人が口を開くと、林田がすぐに顔を上げた。
「ん?」
いつもの軽い返事。けれど、その瞳だけは誤魔化しようがないほど真っ直ぐに健人を射抜いていた。
健人は一度だけ深く息をつき、視線を斜め下へと逸らす。
「お前のこと、ちゃんと考えた」
林田の表情が、目に見えて変わった。驚き、そして期待を堪えきれないような、幼い子供のような顔。
「で、答えは?」
「……そういう聞き方すんなよ。……あのさ」
健人はグラスを置き、低い声で、けれど逃げずに言葉を紡ぐ。
「……もう、誰にでも愛想振りまくの、やめろ」
「え……?」
林田が目をぱちぱちとさせる。その拍子抜けした反応に、健人の耳まで一気に熱くなった。
「だから! 俺以外にそういう顔……見せんなって言ってんだよ」
沈黙が訪れたのは、ほんの一瞬だった。
林田の顔が、みるみるうちに輝き出す。
「やったーーー!」
「ちょ、おい、立ち上がるな!」
勢いよく立ち上がった林田が、テーブルを回って健人の背中に飛びついた。
「健人! 大好き!」
「あぶねえ! 椅子ごとひっくり返るだろ!」
重い、どけ、と文句を言いながらも、健人は本気で彼を突き放すことはしなかった。
腕に回された体温が、驚くほど心地よかったから。
「……お前、ほんとそういうとこだよな。いちいち、真っ直ぐすぎて刺さるんだよ」
「じゃあ、俺の独占欲もお返しするね。健人も、俺以外に変な顔見せちゃダメだから」
振り回されるのは、もう分かっている。
けれど、この騒がしい日々を、健人はどこかで待ち望んでいたのかもしれなかった。




