エピローグ:春の風が運ぶもの(2)
春の光は、冬の終わりよりもずっと柔らかかった。
その日、杏里はおばあちゃんの部屋の襖を、ゆっくりと開いた。
ひんやりとした空気。長く閉ざされていた部屋独特の、静謐な沈黙。
けれど、今日の杏里はそこで立ち止まらなかった。
窓を開けると、春の匂いを孕んだ風が、薄いカーテンを軽やかに揺らした。
おばあちゃんが亡くなってから、時を止めていた場所。
けれど今は、変わらない思い出を抱きしめたまま、変わっていく未来を歩みたいと思える。
「ハヤブサは手伝わないんですね」
窓辺の陽だまりにちゃっかり陣取った愛猫に、鍋島が苦笑いしながら声をかける。
「たぶん、監督のつもりなんです」
杏里も笑って返した。
二人で少しずつ、部屋を整えていく。
埃を払い、残すものと仕舞うものを分けていく。鍋島の手つきはどこまでも丁寧で、この部屋が杏里にとってどれほど大切かを、言葉以上に物語っていた。
「杏里さん」
ふいに、鍋島が手を止めてこちらを見た。
「あの時……俺の帰る場所を作ってくれて、ありがとうございました」
杏里は少しだけ目を丸くする。
「なに、急に」
「ちゃんと、伝えておきたかったので。……これからは、一緒にこの場所を守っていきましょう」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
杏里は最高の笑顔で、力強く頷いた。
「はい! ……私、スキャンダルごときに負けませんから!」
「えっ……! 大丈夫ですか、そんな急に強気で」
「堂々としてます! 隠すから怪しいんです。だったら――……あ、でもやっぱり、もうちょっと考えさせてください」
鍋島はそこでくすりと笑った。
「はい」
その笑い方は、ひどくやわらかい。
「でも、杏里さんとなら、乗り越えられる気がしてます」
その言葉に、杏里はまた笑う。
「望むところです!」
明るく返した声が、換気されたばかりの部屋に響いた。
窓の外には、どこまでも透きとおるような青空が広がっている。
庭の花々が、静かに春の始まりを告げていた。
変わっていくものがある。
でも、変わるからこそ大切にできるものもある。
そのことを、杏里はようやく知ったのだと思う。
窓辺ではハヤブサがあくびをして、また気持ちよさそうに丸くなる。
部屋の中には新しい風が流れ込み、止まっていた時間をそっと動かし始めていた。
その風の中で、杏里はもう一度だけ思う。
おばあちゃんのことは、これからもずっと忘れない。
でも、その優しい思い出に守られながら、自分もまた新しい未来へ踏み出していける。
隣には鍋島がいて、部屋の真ん中には春の光があった。
それだけで、これから先もきっと大丈夫だと、自然に思えた。




