第44話:ただいまとおかえりの先(2)
安心が波のように押し寄せ、杏里の目元に熱いものが滲む。
「ずるいです、そんな簡単に……」
「簡単じゃないですよ。……ずっと、言えなかったんですから」
再び訪れた沈黙は、さっきまでの重苦しさは微塵もなかった。
鍋島がわずかに体の向きを変える。
「杏里さん。……今日は、ちゃんと許可を取ります」
「何を、ですか?」
わかっているのに、わざと聞き返してしまう。
「触っても、いいですか」
熱が顔に広がる。けれど、拒む理由なんて一つもなかった。
「……今さら、ですよ」
そう答えた瞬間、鍋島がふっと吐息を漏らすように笑い、そっと腕を伸ばしてきた。
抱きしめられた体温は、強すぎず、けれど決して離さないという確かな意志に満ちていた。
「……よかった。間に合って」
耳元で囁かれる声。杏里はその胸の中で、ゆっくりと目を閉じた。
しばらくして、鍋島がわずかに体を離した。
至近距離で視線が重なる。
「……キス、してもいいですか」
杏里は小さく、一度だけ頷いた。
降ってきたのは、触れるだけのような優しい感触。
短くて、静かな、けれどこれまでのすべてを肯定するような答え合わせのキスだった。
「……帰りましょうか」
「はい。……私たちの家に」
その言葉の重みが、一時間前とは劇的に変わっていた。
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家に着き、玄関の鍵を開けると、すぐにハヤブサが駆け寄ってきた。
「にゃあ!」
「ただいま、ハヤブサ」
鍋島の口から自然にこぼれた「ただいま」。
杏里は胸がいっぱいになりながらも、今度は迷わずその返事を口にする。
「おかえりなさい」
日常の中の何気ないやり取りが、今日は世界で一番特別な意味を持っていた。
ハヤブサは満足そうに二人の足元を回り、それから居間へと先導した。
仏壇に供えられたスイートピーが、夕陽を透かして誇らしげに揺れている。
「見守られてるみたいですね」
「そうかも。おばあちゃん、たぶんお見通しです」
鍋島が笑い、もう一度、今度はしっかりと杏里の瞳を見つめた。
「これからも、ちゃんと帰ってきます」
「……はい」
居候生活の終わりは、二人の「本当の始まり」への門出。
スイートピーの花言葉が、春の静寂の中で優しく二人を祝福していた。




