第44話:ただいまとおかえりの先(1)
不動産屋の自動ドアが、悲鳴を上げるような音を立てて開いた。
杏里は肩で息を切らしたまま、震える声でその名前を呼んでいた。
「鍋島さん……っ!」
店内の空気が一瞬で凍りつく。
カウンターのスタッフが目を丸くし、奥のテーブル席では、まさに鍋島が契約書に判を捺そうとしているところだった。
止まったペン先。鍋島がゆっくりと顔を上げる。
「……杏里さん?」
驚き、困惑、そしてその奥に潜む「何か」を瞬時に察したような複雑な表情。
杏里は数歩、吸い寄せられるように中へ踏み出した。ここまで来て、今さら恥じらいなんて言葉はどこにも残っていない。
「やっぱり……やっぱり、これからも、うちにいてほしいです」
息を整える間もなく言葉が溢れ出す。
「だから……行かないでください」
静まり返った店内に、杏里の真っ直ぐな願いだけが響いた。
鍋島はじっと彼女を見つめたまま、微動だにしない。やがて、彼は手にしていたペンを静かにテーブルへと置いた。
「……少しだけ、失礼します」
スタッフに短く詫びると、鍋島は立ち上がり、杏里の前へと歩み寄った。
「俺も」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「ずっと、同じことを考えていました」
杏里が息を飲む。
「……俺は、そう言ってもらえるのを、どこかでずっと待っていたのかもしれません」
苦笑いの中に混じった甘い響き。その言葉に、杏里の胸を締め付けていた頑丈な枷が、音を立てて崩れ落ちていった。
不動産屋を後にした二人は、杏里の車へと乗り込んだ。
バタン、とドアが閉まる。外の世界から切り離された瞬間、春先の柔らかな光だけが二人を包み込んだ。
しばらく、重い沈黙が流れる。先に口を開いたのは鍋島だった。
「内見の間も、ずっとそわそわしていたんです。部屋自体は悪くなかった。普通なら、決めてしまうべき条件でした」
「……うん」
「でも、どうしても……。今ここを出たら、一生後悔することになるって、体がわかっていたんだと思います」
鍋島は視線を落とし、少しだけ声を低くした。
「それは、あなたといる時間が、どうしようもなく好きで、愛おしくて。……俺の帰る場所は、いつの間にか『杏里さんと住むあの家』になっていたからだ」
杏里の喉の奥が、熱い塊に塞がれる。
「……私もです」
やっとの思いで絞り出した。
「いなくなっても平気なように、どこかで予防線を張っていたのに。全然、平気じゃなかった。……帰ってきてくれる音がするだけで、安心していたんです。だから……勝手に出ていかないで」
視線を上げた杏里に、鍋島はどうしようもなく優しい笑みを向けた。
「はい。もう、勝手には出ていきません」




