第43話:手離したくない(2)
猫より立場が低い。
それは以前、ハヤブサに布団を占領されていた彼を見て、杏里が冗談半分に言った言葉だった。
家の中の、ほんの小さなやり取り。
どうってことのない、くだらない日常。
けれど、鍋島はそれをすべて「持っていた」。
外で笑い話にできるくらい、彼にとってもそれは、大切に抱えておきたい出来事だったのだ。
「……だめだ」
独り言が漏れた。
ひとつひとつの記憶が、自分の中にも、そして彼の中にも同じ温度で存在している。それを知ってしまったら、もう自分の心に嘘はつけなかった。
手離したくない。
便利だからじゃない。寂しいからだけでもない。
彼がこの家に帰ってきて、ハヤブサが足元に寄り、台所で音がして、ただいまとおかえりが交わされる。
その日常を、もう一分一秒だって失いたくなかった。
杏里は勢いよくスマホを掴んだ。震える指で鍋島に電話をかける。
コール音が、虚しく部屋に響く。一回、二回、三回。
けれど、彼は出ない。
「お願い、出て……っ」
もう一度かけても、繋がらない。内見の打ち合わせ中なのか、移動中なのか。
でも、今すぐ伝えないと、すべてが間に合わない気がした。
杏里は立ち上がった。
上着を引っ掴み、鍵を握りしめる。
玄関へ向かう途中、不思議そうに見上げてくるハヤブサと目が合った。
「……行かなきゃ」
ハヤブサが短く「にゃあ」と鳴いた。まるで急げと背中を押すように、しっぽを一振りする。
杏里はそのまま家を飛び出し、車に飛び乗った。
目的地は、昨日彼が画面で見せてくれた駅前の小さな不動産屋だ。
ハンドルを握る手に力がこもる。三月の街路樹が窓の外を流れていく。街は春に向かっているのに、杏里の頭の中は彼と過ごした冬の記憶でいっぱいだった。
あたたかい雑炊の湯気。
髪を乾かしてくれた大きな手。
隣でお茶を飲んだ、あの静かな時間。
あれは全部、ただの「居候生活」なんかじゃなかった。
「お願い、まだ行かないで……」
小さく漏れた祈りは、フロントガラスの向こうへ溶けていった。
やがて、見覚えのある不動産屋の看板が見えてくる。
杏里は荒々しくウインカーを出し、車を寄せた。
もう、迷っている時間はない。
彼の背中が見えたら、今度こそ、本当の言葉を叫ぶのだと心に決めて。




