第43話:手離したくない(1)
内見の日の朝は、皮肉なほどいつも通りに始まった。
鍋島は静かに身支度を整え、杏里もまた、努めて「普段の自分」を演じていた。
本当は、昨夜から胸の奥が騒がしくて仕方がなかった。
行ってほしくない。ここにいてほしい。
喉の奥まで出かかったその言葉を、杏里は必死に飲み込んだ。いざ彼の顔を見てしまうと、すべてがただの「わがまま」のように思えて怖くなったからだ。
「じゃあ、行ってきます」
玄関で靴を履き、鍋島が振り返る。
「……はい。気をつけて」
それだけだった。
扉が閉まる音がして、家の中が急に静まり返る。
廊下の先で、ハヤブサが閉まったばかりの扉をじっと見つめていた。杏里もまた、その場からしばらく動けなかった。
「行ってらっしゃいなんて……言いたくなかったのに」
本当は、引き止める勇気がなかっただけだ。
ハヤブサが居間へ戻っていくのを見て、杏里も力なく後を追った。
落ち着かない心を紛らわせようと、杏里は何気なくテレビをつけた。朝の情報番組。賑やかなセットの中で、見覚えのある二人が並んでいるのが目に飛び込んできた。
「……え」
三日月ロケットだ。
少し前に収録されたものだろう。最近、露出が増えてきた彼らの勢いを感じさせる一幕だった。
「最近どうなんですか、鍋島さん。暮らしの変化があったとか?」
司会者の振りに、鍋島は少し照れたように笑ってから、落ち着いた口調で話し始めた。
「まあ、ちょっと生活が変わりまして。……自分では失敗したかもと思った料理を、普通に『おいしい』って言ってもらえる環境にいまして」
スタジオが笑いに包まれる。相方の林田が「その言い方、ちょっと重いんだよ!」と鋭く突っ込む。
けれど、杏里は笑えなかった。
(あの時の、煮物のことだ……)
少し味が薄かったかもしれないと鍋島が気にしていた料理を、杏里は「やさしい味で好きです」と言って食べた。
その時の、どこか照れたようにやわらいだ鍋島の顔まで、はっきり思い出せた。
「あと、古い家って急に電球が切れるじゃないですか。そういうとき、妙に手際よく替えられるようになってきて」
「なんでそんな生活力だけ上がってんだよ!」
脚立も使わず、器用に電球を取り替えていた彼の後ろ姿が脳裏に浮かぶ。
「人んちの仏壇のお供え物を食べるタイミングの読み方も覚えましたし」
「何その特殊スキル!」
「いや、あるんですよ。『まだだめな空気』と『もういい空気』が」
杏里は思わず、口元を押さえた。
スイートピーを供えたあの日。彼が小声で「これは、もう食べていい方ですか」と聞いてきた、あの静かで温かい午後。
画面の中で、司会者が笑いながら尋ねる。
「じゃあもう、かなり馴染んでるじゃないですか」
「……いや、でも。家では猫より立場が低いので」
スタジオがドッと沸いた。林田も「そこ自覚あったんだ!」と爆笑している。
杏里の胸が、痛いくらいに熱くなった。




