第41話:優しい思い出のそばで(2)
お坊さんが帰り、玄関の扉が閉まると、家の中に急な静けさが戻ってきた。
けれど、その静けさは以前よりも少しだけ、柔らかい。
鍋島は何も言わず、仏間の片付けを手伝ってくれた。
座布団を戻し、線香の灰を整える。一つ一つの所作が丁寧で、その誠実さが杏里の心を落ち着かせた。
一息ついた頃、鍋島が温かいお茶を運んできてくれた。
杏里の前に湯呑みを置き、自分も少し離れた場所に座る。
近すぎず、遠すぎない。
命日の午後にふさわしい、穏やかな距離。
「……ずっと一人で、やってきたんですね」
鍋島の声は、どこまでも優しかった。
杏里は湯呑みを両手で包み、立ち上る湯気を見つめた。
「……まあ、気づいたらそうなっていました」
「お坊さんが言っていたこと。……無理、していましたか?」
問いかけに、すぐには答えられなかった。
でも、この人になら、少しだけ鎧を脱いでもいい気がした。
「おばあちゃんがいなくなった後、家が急に広くなった感じがしたんです。一人になった途端、音がしなくなって、食卓が広くなって。ああ、もういないんだなって突きつけられる毎日で」
言葉にすると、当時の孤独が鮮明に蘇る。
「だから……あんまり期待しない方が楽だなって思ったんです。誰かがいることや、誰かに頼ることを、最初から当たり前にしない方がいいって」
鍋島は、静かに目を伏せた。
「それで、一人でも平気な顔をするようになったんですね」
「……うまくできていましたか?」
「かなり。……でも、本当は寂しかったんでしょう?」
その一言に、杏里は息を止めた。
喉の奥が、熱くなる。
ひとりでも平気だと思い込もうとしていた。誰にも頼らない方が傷つかないと決めていた。
けれど、本当は、静かな家に帰るたびに、心は少しずつ削られていたのだ。
「……そう、かもしれません」
杏里はやっとの思いで、それだけを口にした。
鍋島はそれ以上踏み込まなかった。慰めも励ましもないけれど、ただそこにいてくれるだけで十分だった。
「今は、家に帰って『音』がすると安心するんです。台所でなべさんが何かしている音。ハヤブサが走る音。そういうのがあると、ああ、今日もちゃんと暮らしがある『家』だなって思えるから」
言い終わると、急激に恥ずかしさが込み上げてきた。
けれど、鍋島は笑わなかった。
ただ、少しだけ揺れるような声で言った。
「じゃあ……今の音、なくしたくないですね」
杏里は思わず顔を上げた。
鍋島の横顔は穏やかだったが、その言葉には、ごまかしのない真っ直ぐな意志が宿っていた。
トコトコとやってきたハヤブサが、杏里の足元に寄り添い、それから鍋島の膝に前足をかける。
「お前は、本当に空気を読むなあ」
「……読んでないと思いますよ」
二人の間に、小さな笑いがこぼれた。
仏壇に供えられたスイートピーが、西日に照らされて柔らかく揺れている。
優しい思い出、ほのかな喜び。
失ったものは二度と戻らない。
けれど、だからこそ、今ここにある温もりを、音を、気配を、離したくないと思う。
鍋島が立てる小さな物音も。
膝の上で鳴く猫の声も。
隣でお茶を飲んでくれる、この人の体温も。
全部、もう「失いたくないもの」になっているのだと。
杏里は春の光の中で、ようやく自分の心に名前をつけた。




