表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三日月ロケット、居候中  作者: あしゅ太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
75/83

第41話:優しい思い出のそばで(2)

 お坊さんが帰り、玄関の扉が閉まると、家の中に急な静けさが戻ってきた。


 けれど、その静けさは以前よりも少しだけ、柔らかい。


 鍋島は何も言わず、仏間の片付けを手伝ってくれた。


 座布団を戻し、線香の灰を整える。一つ一つの所作が丁寧で、その誠実さが杏里の心を落ち着かせた。


 一息ついた頃、鍋島が温かいお茶を運んできてくれた。


 杏里の前に湯呑みを置き、自分も少し離れた場所に座る。


 近すぎず、遠すぎない。


 命日の午後にふさわしい、穏やかな距離。


「……ずっと一人で、やってきたんですね」


 鍋島の声は、どこまでも優しかった。



 杏里は湯呑みを両手で包み、立ち上る湯気を見つめた。


「……まあ、気づいたらそうなっていました」


「お坊さんが言っていたこと。……無理、していましたか?」


 問いかけに、すぐには答えられなかった。


 でも、この人になら、少しだけ鎧を脱いでもいい気がした。


「おばあちゃんがいなくなった後、家が急に広くなった感じがしたんです。一人になった途端、音がしなくなって、食卓が広くなって。ああ、もういないんだなって突きつけられる毎日で」


 言葉にすると、当時の孤独が鮮明に蘇る。


「だから……あんまり期待しない方が楽だなって思ったんです。誰かがいることや、誰かに頼ることを、最初から当たり前にしない方がいいって」


 鍋島は、静かに目を伏せた。


「それで、一人でも平気な顔をするようになったんですね」


「……うまくできていましたか?」


「かなり。……でも、本当は寂しかったんでしょう?」


 その一言に、杏里は息を止めた。


 喉の奥が、熱くなる。


 ひとりでも平気だと思い込もうとしていた。誰にも頼らない方が傷つかないと決めていた。


 けれど、本当は、静かな家に帰るたびに、心は少しずつ削られていたのだ。


「……そう、かもしれません」


 杏里はやっとの思いで、それだけを口にした。


 鍋島はそれ以上踏み込まなかった。慰めも励ましもないけれど、ただそこにいてくれるだけで十分だった。


「今は、家に帰って『音』がすると安心するんです。台所でなべさんが何かしている音。ハヤブサが走る音。そういうのがあると、ああ、今日もちゃんと暮らしがある『家』だなって思えるから」


 言い終わると、急激に恥ずかしさが込み上げてきた。


 けれど、鍋島は笑わなかった。


 ただ、少しだけ揺れるような声で言った。


「じゃあ……今の音、なくしたくないですね」


 杏里は思わず顔を上げた。


 鍋島の横顔は穏やかだったが、その言葉には、ごまかしのない真っ直ぐな意志が宿っていた。


 トコトコとやってきたハヤブサが、杏里の足元に寄り添い、それから鍋島の膝に前足をかける。


「お前は、本当に空気を読むなあ」


「……読んでないと思いますよ」


 二人の間に、小さな笑いがこぼれた。


 仏壇に供えられたスイートピーが、西日に照らされて柔らかく揺れている。


 優しい思い出、ほのかな喜び。


 失ったものは二度と戻らない。


 けれど、だからこそ、今ここにある温もりを、音を、気配を、離したくないと思う。


 鍋島が立てる小さな物音も。


 膝の上で鳴く猫の声も。


 隣でお茶を飲んでくれる、この人の体温も。


 全部、もう「失いたくないもの」になっているのだと。


 杏里は春の光の中で、ようやく自分の心に名前をつけた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ