第41話:優しい思い出のそばで(1)
三月の朝は、まだ少しだけ空気が冷たかった。
けれど、庭先に落ちる光には冬の鋭さが消え、季節がゆっくりと、確実に動き出しているのが分かる。
その朝、杏里はいつもより少し早く起きていた。
居間の仏壇の前には、昨日のうちに新調した花が飾られている。
淡い色の、スイートピー。
やわらかい桃色と、白に近い薄紫。ふんわりと波打つ花びらは、まるで春の気配そのものを形にしたようだった。
「……おばあちゃん、今年もこれだよ」
祖母が好きだった花。
命日には毎年、この花を供えると決めている。
杏里は、かつて祖母から教わったスイートピーの花言葉を、指先でなぞるように思い返した。
門出
優しい思い出
私を忘れないで
どれも少しずつ意味が違うのに、どうしてか全部この家によく似合っている気がした。
仏壇の前で線香を整えていると、廊下から静かな足音が近づいてきた。
「おはようございます」
振り返ると、鍋島が立っていた。まだ少し寝起きの顔だったが、仏壇の前の杏里を見た瞬間、空気を読むように表情を和らげる。
「おはようございます。……今日は、おばあちゃんの命日なんです」
「そうだったんですね」
それ以上深くは踏み込まない。その適切な距離感が、今の杏里にはありがたかった。
「今日はお坊さんが来られます」
「じゃあ、朝のうちに何か手伝えることがあったら言ってください」
その返しがあまりにも自然で、杏里は少しだけ目を瞬かせた。
遠慮や義務感ではなく、もう「この家の一員」として動くことが当たり前になっているような、そんな響き。
「……座布団を出すくらいです」
「それならやります。あと、お茶の用意もしておきますね」
鍋島はそう決めた顔で頷いた。
一人で静かに迎えるはずだった朝。そこに、自分以外の誰かがいる。
不思議な感覚だったが、それは決して悪いものではなかった。
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昼前、昔からこの家を見守ってくれているお坊さんがやってきた。
鍋島はさりげなくスリッパを揃え、仏間へ案内する。その一連の動作が、驚くほど家になじんでいた。
お経が始まり、低く穏やかな声が部屋に満ちていく。
線香の匂いと、スイートピーのやさしい色。
少し後ろで静かに手を合わせる鍋島の姿を視界の端に捉えたとき、杏里の胸の奥に小さな熱が宿った。
お経が終わり、居間でお茶を出そうとすると、鍋島が自然に急須を受け取った。
「俺がやります」
「……ありがとうございます」
お坊さんはそのやり取りを眺め、ふっと目を細めた。
「……賑やかになったね、杏里ちゃん」
何気ない一言だったが、それは今の二人の関係を真っ直ぐに射抜いていた。
「おばあさまが亡くなってから、杏里ちゃんは若いのによく一人で頑張ってきた。ちゃんとしていたけれど、ちゃんとしすぎるくらいだったから」
鍋島は何も言わず、けれど真剣な顔でその言葉を聞いていた。
「今はこうして、誰かの気配があるだけでも違うでしょう。おばあさまも、きっと安心しているよ」
杏里は答えを返せなかった。
ただ、胸の奥で重い澱のようなものが、静かに溶け出していくのを感じていた。




