第39話:守られるだけじゃ終われない(2)
居間に荷物を置いた後も、鍋島はすぐさま台所へ向かおうとした。
「何か温めます。冷蔵庫にあるものを適当に……」
「座ってください」
杏里の鋭い声が、夜の静寂を打った。
「今日は、私がやります。鍋島さんは、そこで座っていてください」
「いや、でも杏里さんにまで……」
「『でも』じゃないです。最近、ずっとそうやって帰宅してからも気を張ってるじゃないですか」
図星を突かれたのか、鍋島が言葉を失う。
冷蔵庫には、昨日のうちに仕込んでおいたおかずと味噌汁がある。
以前の杏里なら、彼の好意に甘えていただろう。それが心地よくて、ありがたかったから。でも今は、その「してもらう側」の椅子に座り続けることが、たまらなく苦しかった。
「鍋島さんばかりが気を張って、鍋島さんばかりが無理をして……そんなの、違うと思います」
「……杏里さん」
「無理しなくていい、って言いたいんですよね? それ、そっくりそのまま返します」
杏里は振り返り、彼を真っ直ぐに見据えた。
「今まで、いろいろ守ってもらって助かったのは本当です。でも、いつまでも『守られてるだけ』なのは嫌なんです」
自分の声が少し震えていることに気づく。けれど、一度溢れた本音は止まらなかった。
「鍋島さんが一人で抱え込んで、勝手に無理をして……そのせいで、どんどん遠くなる方が、もっと嫌です。守ってもらうだけじゃなくて、ちゃんと、あたしも『そっち』にいたいんです」
味噌汁を温め直す小さな音が、居間に響く。鍋島はしばらく沈黙した後、静かに口を開いた。
「……『そっち』って、どっちですか」
杏里はほんの少しだけ目を伏せ、熱くなる顔を隠すように答えた。
「鍋島さんの……『帰る場所』の方です」
言葉にした瞬間、取り返しのつかないことを言った自覚が込み上げる。けれど、もう引っ込めるつもりはなかった。
鍋島の表情が、ゆっくりと形を変えていく。驚きと戸惑い、そして、ふわりと溶けるような柔らかさ。
「……ずるいですね、本当に。そういう言い方をするのは」
「鍋島さんにだけは言われたくないです。いつも何でもない顔をして、無自覚にずるいこと言うくせに」
鍋島が、今度は力を抜いて笑った。
「分かりました。今日は、お言葉に甘えます」
ようやく椅子に腰を下ろした彼を見て、杏里は深く息を吐いた。湯気の立つ味噌汁と、温かいごはん。特別なご馳走ではないけれど、今の彼に必要なのは、誰かが用意してくれた「当たり前」の食卓なのだと確信していた。
「はい。今日はちゃんと食べて、すぐに休んでください」
「……はい。怒られながら世話されるのも、なかなか悪くないですね」
食後、珍しく鍋島はそのままこたつに身を沈めた。膝の上には、待ってましたと言わんばかりにハヤブサが陣取っている。
杏里は淹れたての茶を二つ運び、こたつの向かいではなく、彼の隣に座った。
「杏里さん」
「はい」
「さっきの……守られるだけじゃ嫌だっていう話。……正直、嬉しかったです」
鍋島が湯のみを見つめたまま、独り言のように呟く。
「俺ばかりがそうしようとしていたのは、確かですから。……これからは、ちゃんと一緒に考えます。勝手に決めないようにします」
その言葉を聞いた瞬間、杏里の胸を締め付けていた見えない糸が、ようやく解けた気がした。
「守られる側」でいたいわけじゃない。その人の隣に、対等に立ちたい。
それが恋なのか、あるいはもっと別の深い絆なのかはまだ分からない。けれど、もう「ただの同居人」という言葉では片付けられない場所に、二人は立っていた。
小さく触れ合った湯のみの音が、いつもより少しだけ、確かな体温を持って響いた。




