第39話:守られるだけじゃ終われない(1)
噂の火は、思っていたより静かに、けれど確実に燻り続けていた。
表立って炎上しているわけではない。名前が特定されたり、決定的な写真を撮られたりしたわけでもない。けれど、一度「疑惑の目」を向けられ始めると、鍋島の振る舞いは目に見えて変わっていった。
ライブ終わりに杏里の車に乗ることはなくなり、仕事が重なっても帰りは別々。外で偶然顔を合わせても、以前のように自然に隣を歩くことを、彼は避けるようになった。
それが「正しい」のだと、杏里にも分かっている。
分かっているのに、そのたびに胸のどこかが小さく冷えていく。
家の中では、彼は努めて「今まで通り」であろうとしていた。食事の時の声、ハヤブサを撫でる手つき。けれど、その「変わっていないふり」の裏で、鍋島がずっと神経を尖らせていることくらい、今の杏里には痛いほど伝わってしまった。
ある日の夜。地方営業から戻る鍋島の帰宅は、22時を優に回っていた。
玄関の鍵が回る音がした瞬間、ハヤブサが勢いよく飛び起きる。杏里も反射的に立ち上がった。
「ただいま……」
聞こえてきた声は、予想以上に掠れていた。
廊下に出ると、鍋島はいつもより少しだけ背中を丸め、大きな荷物を手に立ち尽くしていた。コートの肩には、夜気の冷たさが重く沈んでいるようだった。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
鍋島が微かに笑おうとした瞬間、杏里はその荷物へ迷わず手を伸ばした。
「持ちます」
「えっ、大丈夫ですよ。自分で……」
「大丈夫じゃない顔をしてます」
杏里は半ば強引にバッグを奪い取った。
「ハヤブサが足元をうろうろしてて危ないですから。早く入って」
驚いた顔の鍋島は、一瞬だけ抵抗しようとしたが、杏里の視線の強さに根負けしたように息を吐いた。
「……すみません」
「謝らないでください」




