第38話:同棲疑惑の影
三日月ロケットの露出が増えるにつれ、鍋島の帰宅時間は目に見えて遅くなっていった。
「今日は23時を回るかもしれない」という夕方の短い連絡に、杏里は「わかった」とだけ返す。以前ならそれで完結していたやり取りも、最近はスマホを伏せた後、言いようのない落ち着かなさが胸に居座るようになっていた。
ハヤブサも同様らしく、夕飯を終えてもこたつには入らず、玄関の方へ行っては戻る動作を繰り返している。
「……まだだよ」
杏里の声に、ハヤブサは振り返りもせず、じっと廊下の先を見つめていた。その時、スマホが震えた。鍋島からではなく、親友の結衣からだった。
結衣: ねえ、ちょっとこれ見て。
送られてきたのは、SNSのスクリーンショットだった。
ファンアカウントらしき投稿には、三日月ロケットに関する不穏な噂が書き込まれていた。
『最近なべさん、ライブ終わりに女の人の車に乗ってるってマジ?』
『この前、温泉施設でも見かけたんだけど……』
『彼女とかだったら、ガチでしんどい』
杏里の指先が、冷たく止まる。
温泉。あの日、駐車場で感じた若い女性二人組の視線。鍋島がさりげなく歩を早めたあの瞬間の違和感。すべてが今、最悪のパズルのように組み合わさった。
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深夜、玄関の鍵が回る音がした。ハヤブサが真っ先に駆け出す。
杏里も反射的に立ち上がり、居間の入口で鍋島を待った。コートを脱ぐ彼からは、疲労だけでなく、何かを重く考え込んでいるような気配が漂っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま……どうしました、そんな深刻な顔して」
杏里は迷うことなく、結衣から送られてきた画面を差し出した。
鍋島はそれを見るなり、驚くというよりは「やはり来たか」と諦念の混じった表情を浮かべた。
「……知っていたんですか?」
「さっき、林田からも同じものが送られてきました。……温泉の時のやつでしょうね」
「なんで言ってくれなかったんですか」
責めるつもりはなかったが、声は思ったより強くなった。鍋島は少し目を伏せ、静かに答えた。
「変に不安にさせたくなかったんです。でも、甘かったですね。……火がつく時は一気ですから」
鍋島は一呼吸置いて、意を決したように杏里を見つめた。
「杏里さん、今のうちに距離を取りましょう。ライブ後の送迎はもうやめます。外で会うのも避けましょう。……それに、部屋も早めに決めた方がいい」
「部屋を決める」――それはいつか来るはずの予定だった。なのに、今このタイミングで言われると、まるで拒絶されたかのように胸を刺した。
「それって、あたしを守るために言ってるんですか?」
「……普通に考えたら、そうです。君は一般の人だし、こんなことに慣れていない」
鍋島の言葉を遮るように、杏里ははっきりと言い放った。
「普通に考えたらって、鍋島さん、そこにあたしの気持ちは入ってないじゃないですか。バレたら面倒なのは分かるけど、だからってすぐ出ていくなんて、急すぎます」
鍋島は反論せず、苦しげな表情で黙り込んだ。ハヤブサが二人の間で不安そうに一度だけ鳴く。
「……鍋島さんがひとりで勝手にあたしを守ろうとして、勝手に遠くなる方が、あたしは嫌です」
消え入りそうな、けれど確かな本音。鍋島は驚いたように目を見開いた。
「ずるいですね、そういうことを今言うのは……」
鍋島がふっと、静かに笑った。それは安心とも諦めともつかない、強張った心がほどけたような笑みだった。
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結局、二人はその夜、一緒に遅い夕飯を食べることにした。
外での接触を控えるというルールは決まったものの、台所に並び、味噌汁を温め、ご飯をよそういつもの動作が、今はひどく愛おしい。
「ハヤブサ、ずっと玄関で待ってたんですよ」
「お前は相変わらずですね」
鍋島が、疲れの残る手でハヤブサの背を撫でる。
仕事が増え、会えない時間が増え、ようやく会えたと思えば外圧が襲ってくる。せっかく延長した同居生活は、思い描いたような平穏さとは程遠いものになりつつあった。
けれど、この揺れの中で、杏里は気づいてしまった。
離れたくない。
名前のない気持ちは、もう「曖昧なまま」ではいられないほど、はっきりと胸の奥で熱を持っていた。




