第37話:鍋の湯気と、それぞれの距離(2)
鍋が煮え立ち、居間全体が温かな出汁の匂いに包まれる。
食卓を囲むと、林田は当然のように健人の隣を陣取った。
「健人、肉取って」
「お前、さっきからハヤブサと遊んでるだけで何もしてないだろ」
「でも今、お前の席がいちばん近いじゃん」
文句を言いながらも、健人の箸は迷わず肉を掬い、林田の小皿へと運ばれる。
「あ、水餃子! これ俺の好物じゃん。やっぱ健人は俺のこと分かってるなあ」
「自意識過剰だ。たまたまだろ、調子に乗るな」
健人は突き放すが、そこへ林田がさらに調子に乗って鍋をのぞき込んだ。
「おかわりもよそって」
その直後だった。
健人がごく自然に、けれどどこか呆れたような、それでいて親密な響きを含んだ声で返した。
「自分でできるだろ、賢章」
その瞬間、結衣は箸先でつまんでいたつくねを落としそうになった。
(……賢章? 今、お兄ちゃん、林田さんのこと下の名前で呼んだ……!?)
しかも、呼ばれた林田も、一ミリも動揺していない。それが日常の風景であるかのように、二人の会話は続いていく。
「賢章って呼ぶなよ」
「自分でできるなら呼びません。……ほら、食え」
「今の一回で急に冷たくなるじゃん」
文句を言いながらも、結局よそってやる健人。結衣は確信した。
(お兄ちゃんのほうも、完全に始まってる……!!)
向かい側では、さらに静かな、けれど熱を持ったやり取りが続いていた。
「杏里さん、春菊は無理に食べなくていいですよ」
鍋島がそっと小皿を寄せる。
「これくらい食べます! あたし、大人なので」
「ふふ、そんなにムキにならなくても。苦いのが苦手なのは知ってますから」
「……知ってるなら言わないでください」
杏里が少し頬を染めて視線を逸らすと、鍋島は慈しむような、あまりに柔らかい眼差しで彼女を見つめていた。
結衣は黙って鍋を食べた。いや、食べることしかできなかった。
健人が無意識にこぼした「賢章」という呼び名と、林田の当たり前すぎる反応。
杏里の不器用な強がりと、それを包み込む鍋島の静かな熱。
湯気の向こう側で、二組のペアが描く「距離」は、もはや他人が踏み込めるものではなくなっていた。
「……どうしよう」
結衣はつくねを咀嚼しながら、一人で抱えきれない情報量に頭を抱えた。
「私だけ、全部見えちゃってる気がする」
ハヤブサが鍋島の膝の上で満足げに喉を鳴らしている。
にぎやかで、あたたかくて。けれど、確実に何かが変わり始めていることを突きつけられた、冬の夜の鍋パだった。




