第36話:少しずつ遠くなる夜(2)
それからしばらくして、彼らを取り巻く環境は目に見えて変わり始めた。
いきなり大ブレイク、というわけではない。けれど、明らかに「三日月ロケット」が呼ばれる場所が増えていったのだ。
深夜のネタ番組の収録。
地方のショッピングモールでの営業。
WEB配信番組のちょっとしたコメント撮り。
ひとつひとつは小さな仕事でも、それが切れ目なく続くようになると、生活のリズムはあっという間に変貌していく。
相方の林田は、分かりやすく浮かれていた。
「ついに世間が俺の輝きに追いついてきたな……」
ある日の食卓で真顔で言い放った彼に、杏里は思わず箸を止めた。
「……何ですか、それ」
「そのまんまの意味だよ。時代が俺を必要とし始めたんだ」
「はいはい、よかったですね」
鍋島がいつものように薄い反応を返すが、最近はその言葉にも不思議な説得力が伴い始めていた。実際、ライブでの手応えも、番組での評価も、以前とは比べものにならないほど良くなっている。
鍋島は静かに流していたけれど、彼自身も確かな手応えを感じているようだった。家でスケジュールを確認している時の、あの極限まで集中した横顔がそれを物語っている。
しかし、仕事の手応えと引き換えに、家の中の時間は少しずつ削り取られていった。
帰宅時間は日に日に遅くなり、朝は早くなる。一緒に夕食を囲める日は、週に一度あるかないかまで減ってしまった。
前は、仕事から帰ればキッチンに鍋島がいるのが当たり前だった。「ただいま」と言えば「おかえり」が返ってきて、ハヤブサが足元をうろうろする。そんな穏やかな日常が、いつの間にか「特別」なものに変わっていた。
今は、杏里が一人で先に食べる日が増えた。
鍋島の分だけラップをかけて冷蔵庫に入れておく。それが最近の杏里のルーティンだ。
「……ハヤブサ、まだ帰ってこないよ」
廊下の方へ向かってとことこと歩いていき、玄関の前で座り込んでいる猫に声をかける。
その姿を見ていると、杏里の胸の奥には何とも言えない空虚さが広がった。
(私だって、無意識に同じことをしている……)
時計を見る回数が増えた。スマホの通知が鳴るたびに画面をチェックし、外で車の音がすれば、つい耳を澄ませてしまう。
会えない時間が増えることで、やっと気づいた。
「いれば安心する」と思っていた感情は、いつの間にか「会えないと寂しい」という、より切実なものに育っていたのだ。
その夜、鍋島から連絡が来たのは22時を過ぎた頃だった。
『収録が押して、もう少し遅くなりそうです。先に休んでいてください』
その文面を見て、杏里は少しだけ唇を噛む。
彼は優しい。けれど、その正しすぎる優しさが、今の杏里にはひどく物足りなかった。
本当は、待っていたい。顔を見て、一言だけでも話したい。
けれどそんな我が儘は言えず、杏里は短く『わかりました』とだけ返信した。
数日後にはさらに地方営業が入り、朝早く出て帰りは深夜、という予定が続いた。
ハヤブサは、そのあともしばらく玄関前で粘っていたけれど、結局戻ってきてこたつ布団の上で丸くなった。杏里はその背中を撫でる。
「ハヤブサも、気にしてるのかな」
小さくそう言うと、ハヤブサは目だけを細めて、杏里の手に頭を預けた。
鍋島は表向き、いつも通りだった。疲れていても、家に帰れば「ちゃんと」料理をしようとするし、杏里の体調やハヤブサのごはんも気にする。でも、その「ちゃんと」が、少しずつ無理を重ねていることを、杏里は肌で感じるようになっていた。
「今日は本当に、何もしなくていいです」
ある日、深夜に帰宅した鍋島が、そのままふらりと台所に立とうとした時。杏里は思わず、少し強い声で彼を止めた。
「もうごはんも温めてありますし、お風呂だけ入って寝てください」
鍋島は少しだけ驚いた顔をした。「……でも、」
「『でも』じゃないです」
杏里は冷蔵庫から作り置きの皿を出しながら、真っ直ぐに彼を見た。
「最近、無理しすぎです」
鍋島はそのまま数秒間、何も言わずに立ち尽くしていた。やがて、小さく、吐き出すように笑う。
「……言われましたね」
「言いますよ。見てたら分かるので」
鍋島はそれ以上反論せず、大人しく椅子に座った。その姿を見て、杏里は少しだけほっとする。
こういうことが言えるようになったのは、きっと自分たちが「ただの同居人」以上の何かになりつつあるからだ。支えたい。そう願う気持ちが、杏里を少しだけ強くしていた。
ある晩、玄関の開く音がして、杏里は布団の中で意識を覚醒させた。
そっと襖が開き、こちらの様子を確かめるように鍋島が立ち止まる気配がする。寝たふりをしながら、杏里はその気配を愛おしく、そして切なく感じていた。
帰ってきた。それだけで胸が温かくなる。
けれど、これからもっと忙しくなれば、この「距離」はもっと遠くなってしまうのではないか。
せっかく延長した同居生活。
三日月ロケットの成功を誰よりも願っているはずなのに、それと反比例するように減っていく「二人の時間」に、杏里はどうしようもない寂しさを抱え始めていた。




