第36話:少しずつ遠くなる夜(1)
結局、その日の夜、杏里と鍋島は本当に日帰り温泉へと向かった。
車を出したのは杏里で、助手席の鍋島はいつもより少しだけ静かだった。けれど、家で無言のまま台所にこもっていた時のあの張り詰めた空気は、車の窓を開けて流れ込んできた夜風に溶けるように、いつの間にか薄れていた。
郊外の温泉施設は、平日の夜ということもあって落ち着いた情緒に包まれていた。
木の香りが漂うロビー、少し落とされた照明。受付の近くには地元の野菜やお菓子が並んでいて、「結衣が好きそうだな」と杏里はぼんやり思った。
「……本当に来たんですね」
下駄箱の前で、鍋島が少しだけ、憑き物が落ちたような顔で笑う。
「そりゃ、私が誘ったんですから。今さら引き返されても困ります」
「そうですね。……ちゃんと来て、よかったです」
浴場は男女別のため、しばしの別れ。
先に上がって休憩所で待っていた杏里が、少し遅れてやってきた鍋島の顔を見たとき、「誘って正解だった」と確信した。家を出る前よりも、その表情がずっと柔らかくなっていたからだ。
「どうでした?」
「思っていたより、ずっとよかったです。……杏里さんは?」
「私も。露天風呂、ちょうどいい温度でした」
自販機で買った瓶のコーヒー牛乳を並んで飲む。ただそれだけのことなのに、二人を包む時間は妙に静かで、ひどく落ち着くものだった。
けれど、帰り際。
駐車場へ向かう途中で、若い女性の二人組が少し離れた場所でひそひそと話しているのが見えた。
「……ねえ、あれ。さっきのテレビの……」
「え、本当に? でも、こんな所にいるかな」
杏里には断片的にしか聞こえなかったが、鍋島は一瞬だけそちらに目をやり、それから何でもない顔をして、歩く速度をわずかに早めた。
その時の杏里は、深くは気にしなかった。夜の温泉で目立つ男性が注目されることくらい、珍しくもないと思っていたのだ。
そのささやかな違和感が、これからの二人の生活を揺らす予兆だとは、まだ気づかずに。




