第35話:甘さのあとで(2)
その日の夜。
仕事を終えて帰宅した鍋島は、いつも通りに見えて、どこか「色」が違っていた。
「ただいま」という声のトーンが、わずかに低い。
杏里はこたつの中から、すぐさまその違和感を察知した。
「おかえりなさい。……どうかしました?」
「……いや。ちょっと、ネタがうまくまとまらなくて」
鍋島はそれだけ言うと、荷物を置いてすぐにキッチンへ向かった。
しばらく共に暮らしてきて、杏里にも分かることが増えていた。鍋島は落ち込んでも騒がないし、不機嫌を撒き散らすこともしない。その代わり、深く悩んでいる時ほど、静かに台所へこもるのだ。
トントンと野菜を刻む音、ジュウという炒め物の音。すべてが丁寧で、けれどどこか張り詰めている。
(……相当、煮詰まってるな)
真面目すぎる人なのだ。独りで抱え込み、自分の中へと深く潜っていく。そんな彼を、今は少しだけ外に連れ出してやりたかった。
「あの、鍋島さん」
「はい」
「これから私、日帰り温泉に行こうと思ってるんですけど」
包丁の音が、ぴたりと止まった。
鍋島がゆっくりと振り向く。その顔には、隠しきれない驚きが浮かんでいた。
「日帰り温泉? ……今から、ですか」
「そうです。結衣がおすすめしてた所が近所にあるんです。……どうせ今、行き詰まってるんでしょ」
鍋島が小さく息を呑むのが分かった。
「……そんなに、分かりやすかったですか」
「台所の空気で分かります。鍋島さん、そういう時ほど料理に気合が入るから」
静かな沈黙が流れた。
見透かされたことに戸惑いながらも、どこか肩の力が抜けていくような、柔らかな沈黙。
鍋島は包丁を置き、ふっと苦笑した。
「本当……よく見てますね。杏里さんには敵わないな」
「見てるというか、伝わってくるだけです。……で、行くんですか、行かないんですか」
鍋島は少しの間をおいてから、観念したようにエプロンを外した。
「……お言葉に甘えます。少し、頭を冷やしてきたい」
「じゃあ、決まりですね。準備してきます」
杏里は立ち上がり、和室へ向かった。背中越しに、鍋島が「ありがとうございます」と小さく、けれど素直に呟くのが聞こえた。
今、彼の顔を見たら、自分の方が照れてしまう。
「ついでですから」とだけ言い残して、杏里は足早に部屋を後にした。
甘いチョコを贈った朝。そして、少しだけ苦い夜。
けれど二人の距離は、温泉の湯気のように、じんわりと、けれど確実に温かく近づいていた。




