第35話:甘さのあとで(1)
その日の朝、杏里は目覚めた瞬間から、どこか落ち着かない心地でいた。
キッチンの隅には、昨夜のうちにどうにか形にした小さな箱が置かれている。結衣に半ば強引に背中を押されながら作った、手作りチョコだ。見た目はそれなりに整っているし、たぶん失敗ではない。けれど、自信があるかと聞かれれば、答えは「否」だった。
(あたしのなんて、ファンの方からもらう立派なものに比べたら……)
鍋島は人気急上昇中の芸人だ。ライブやイベントのたびに、きっと洗練された贈り物をもらっているだろう。そう思うと、この不格好な箱を差し出すのが、急にひどく気恥ずかしく思えてきた。
鍋島はいつも通りの朝を過ごしていた。コーヒーを淹れ、手際よく朝食を整え、足元をうろうろするハヤブサを慣れた足つきで避けていく。そのあまりに「日常」すぎる背中を前に、杏里は箱を握りしめたまま、何度も口を開きかけては閉じた。
けれど、彼が仕事へ出かける時間は刻一刻と迫ってくる。
「……あの」
意を決して声をかけると、鍋島が「はい?」と穏やかに振り向いた。
途端に喉が詰まりそうになったが、杏里はそのまま小さな箱を突き出すように差し出した。
「……お口に合うか分かりませんが。バレンタインなので」
一瞬、鍋島の動きが止まった。
差し出された箱と杏里の顔を交互に見つめ、彼はわずかに目を見開く。けれどすぐに、その表情は春の陽だまりのような柔らかさに変わった。
「これ、もらってもいいんですか」
「普段お世話になってるお礼です。別に、大したものじゃないんですけど……」
言い訳めいた言葉を最後まで聞いてから、鍋島はそっと、壊れ物を扱うように丁寧に箱を受け取った。
「ありがとうございます。……すごく、嬉しいです」
「……そうですか。ファンの人からも、いっぱいもらうでしょうけど」
つい、拗ねたような言葉が漏れてしまった。しまった、と思ったがもう遅い。
けれど鍋島は、少しだけ目を細めて真っ直ぐに杏里を見た。
「確かにいただくことはありますけど……これは、杏里さんが俺のために作ってくれたものですから」
真っ直ぐすぎるその言葉に、杏里は言葉を失った。こういう台詞を、なんでもない顔で言えてしまうのが、この人のずるいところだ。
「開けてもいいですか」
「え、今……?」
鍋島は箱を開け、不器用ながらもトッピングされたチョコのひとつを口にした。杏里は無意識に息を止める。
「……どうですか」
「おいしいです。ちゃんと」
「『ちゃんと』って何ですか」
「いえ。手作りって味より気持ちが勝るものだと思っていましたけど、普通に味もいいです」
鍋島は箱を閉じ、大切そうに仕舞い込んだ。
「お返し、何倍がいいですか? 三倍だと普通ですよね。……五倍?」
「大袈裟すぎますって。……でも、それくらいの気持ちで受け取ってもらえたなら、よかったです」
ハヤブサが足元で「にゃあ」と鳴く。杏里はハヤブサを抱き上げ、少しだけ顔を伏せた。
大事にされるのは、まだ慣れない。でも、それ以上に胸の奥が温かくなるのを感じていた。




