第33話:ハヤブサのごはん問題(2)
診察室に呼ばれ、キャリーから出されたハヤブサは、先生の前では驚くほどお淑やかだった。
体重測定、触診、聴診。一通りの診察を終えた先生は、カルテに目を落としてふっと微笑んだ。
「最近、ごはんの銘柄を変えたりしましたか?」
杏里と鍋島は、顔を見合わせた。
「……あ」
「そういえば、数日前に切れたので、新しいのを買いました」
鍋島の答えに、先生はあっさりと頷く。
「体調に異常はありませんね。ただの『選り好み』です。新しいフードが気に入らなくて、抗議してるんだと思いますよ」
一瞬、診察室に静寂が訪れた。
「……え、わがまま、ってことですか?」
「猫にはよくあることですよ。前のフードに戻せば、きっとまた食べ始めます」
会計を終えて待合室に戻った杏里は、椅子の背もたれに深く体重を預け、長い溜息をついた。
「よかった……本当によかったけど……」
「あんなに全力で追いかけっこした結果が、これですか」
鍋島も、疲労と安堵が混ざったような苦笑いを浮かべている。
帰宅途中に元のメーカーのフードを買い、皿に出した瞬間。
ハヤブサは「待ってました!」と言わんばかりの勢いで突進し、猛烈な勢いで食べ始めた。
「嘘でしょ……」
呆然とする杏里を余所に、ハヤブサはカリカリと小気味良い音を立てて完食し、満足げに口元を毛繕いし始めた。
「ご満悦ですね」
「……本当に、人騒がせなんだから」
その日の夜。
こたつに並んで座りながら、杏里はふと口を開いた。
「今日、一人じゃなくてよかったです」
お茶を飲んでいた鍋島が、少しだけ目を細めて隣を見る。
「俺もですよ。あの追いかけっこ、一人だったら負けてました」
「ふふ、連携プレーでしたもんね」
「ですね。二人で心配して、二人で連れて行って。……一人よりもずっと、心強かったです」
ハヤブサはこたつ布団の上で丸くなり、幸せそうな寝息を立てている。
「……なんか、本当に家族みたいですね」
ぽろりと零れた言葉に、杏里は自分でも少しだけ照れた。
けれど鍋島は、それを否定しなかった。
「……そうですね。そうかもしれません」
静かな肯定が、杏里の胸にすとんと落ちる。
窓の外は冷え込んでいたけれど、こたつの中の温もりと、隣にいる鍋島の気配、そして満腹で眠るハヤブサの存在が、今の家の中をひどくあたたかいものにしていた。




