第33話:ハヤブサのごはん問題(1)
杏里の体調がすっかり快復し、家の中にいつもの穏やかなリズムが戻ってきた頃のことだった。
朝、ハヤブサの餌皿を覗き込んだ杏里は、小さく眉を寄せた。
「あれ……?」
昨夜入れたはずのフードが、半分以上残っている。ハヤブサは食いしん坊というわけではないが、いつもなら完食しているはずの量だ。
その時は「たまたま食欲がないのかな」程度に思い、杏里は特に深く気に留めなかった。
けれど、夕方になっても状況は変わらなかった。
水は飲んでいるし、毛並みも綺麗だ。部屋の中をトコトコと歩き回り、おもちゃを見せればじゃれてもくる。けれど、肝心のごはんには見向きもしない。
「……鍋島さん」
玄関の鍵が開く音がした瞬間、杏里は弾かれたように立ち上がった。仕事から帰ってきたばかりの鍋島が荷物を置くより早く、不安を滲ませた声で彼を呼ぶ。
「はい、どうしました?」
「ハヤブサが、ごはんを全然食べてくれないんです」
その一言で、鍋島の表情が引き締まった。彼はすぐに靴を脱ぎ捨てて居間へ上がり、皿を覗き込む。
「本当だ。……水は?」
「飲みます。吐いたりもしてないし、さっきまで遊んでたんですけど」
「元気はありそうですけど、食べないのは気になりますね」
二人の視線の先で、当の本猫は前足を揃えて座り、どこか遠くを眺めていた。その呑気な様子が、逆に杏里の不安を煽る。
「病院、行ったほうがいいでしょうか」
「一度診てもらいましょう。今から間に合うか、電話してみます」
電話の結果、すぐ連れてきてほしいとのことだった。その言葉に少しだけ安堵したのも束の間、次の難関が立ちはだかった。
「ハヤブサ、キャリーに入れないと」
「……ですね」
二人の視線がハヤブサに注がれる。嫌な予感がしたのか、ハヤブサの耳がぴくりと動いた。
杏里が押し入れからキャリーケースを取り出した瞬間――。
――ダダダッ!
凄まじい足音を立てて、ハヤブサが廊下へ駆け出した。
「あ、待って!」
「そっち行った!」
そこからは、さながら捕物帳だった。
ハヤブサは全力で逃げ回る。和室へ飛び込み、障子の隙間をすり抜け、居間を横切って縁側へと走る。杏里が手を伸ばせばひらりと避け、鍋島が先回りしてもするりと股下を抜けていく。
「速い……!」
「いつもより二割増しくらい俊敏ですね!」
「分析してないで捕まえてください!」
ハヤブサは二人の必死な形相を楽しんでいるのか、どこか得意げにすら見えた。
最終的に、縁側の角に追い込んだところで、杏里が前から手を広げ、鍋島が背後から回り込む。
「今です……っ!」
「はい!」
鍋島がひょいと、ハヤブサの胴体を抱え上げた。「にゃっ」と不満げな声を上げたが、一度しっかりホールドされてしまえばもう観念したらしい。
「よかった……」
杏里は膝から崩れ落ちそうになりながら、激しく上下する肩を落ち着かせた。
「なんでこんな時だけ、忍者みたいになるんだよ……」
鍋島も小さく息を吐きながら、腕の中の「人騒がせな毛玉」を苦笑いで見つめる。
車を走らせて動物病院へ向かう間も、杏里の心臓はずっと早鐘を打っていた。
「大丈夫かな……」
「今のところ大人しくしていますし、きっと大丈夫ですよ」
鍋島の言葉に頷きつつも、杏里はキャリー越しに何度もハヤブサに話しかけた。自分が熱を出したときより、今のほうがよっぽど落ち着かない。こうして二人で必死になっていると、ハヤブサがもう立派な家族の一員であることを痛感させられた。




