第32話:やさしくされる夜(2)
軽い夜食を終えたあと、杏里は風呂を済ませて上がることにした。
洗面所を出ると、タオルで髪を拭いている杏里の姿を見つけた鍋島が、座椅子から立ち上がった。
「どうですか、気分は」
「大丈夫です」
反射的に答えた瞬間、鍋島が「はい、出た」といたずらっぽく笑った。
「今日はあまり信用してないです。そこに座ってください」
そう言って彼が取り出したのは、ドライヤーだった。
「え、もう自分で乾かせますよ」
「知っています。でも、今日は特別です。座って」
名前こそ呼ばれていないが、その声音には確かな温度があった。杏里は観念して、こたつのそばに腰を下ろす。
後ろに鍋島が立つ気配がし、次の瞬間、温かい風が髪に当たった。
ドライヤーの音は、静かな夜の室内で低く響く。
彼の指先が髪をすくたびに、頭皮に伝わる微かな刺激。首筋にかかる髪を持ち上げる際、彼の指先がほんの少しだけ肌を掠める。直接触れているわけではないのに、それだけで心臓の鼓動が早まるのが分かった。
「……上手、ですね」
沈黙に耐えかねてぽつりと溢すと、頭上から少しだけ笑ったような気配がした。
「そうですか? ならよかったです」
「美容師さんみたいです」
「それは盛りすぎ。ただ乾かしているだけですから」
そんな他愛もないやり取りをしているうちに、風呂上がりのだるさが、温風と一緒に解けていく。しばらくして音が止むと、鍋島の指先が整えるように髪をひと撫でして、離れていった。
「終わりました」
「……ありがとうございます」
振り向くと、コードをまとめる鍋島が少しだけ首を傾げた。
「今日はいつもより素直でしたね」
「……逆らう元気がないだけです」
「それもありますね」
鍋島が笑う。それだけで居間の空気が柔らかく溶ける。
二人がこたつに戻ると、ハヤブサが当然のような顔をして間へ割り込んできた。一度杏里を見たあと、すぐに鍋島の膝へと移動する。
「……薄情。さっきまで私のところにいたのに」
「体温で選んでるだけかもしれませんよ」
鍋島はお茶を二つ淹れ、ひとつを杏里の前に置いた。
湯気の立つマグカップを両手で包みながら、杏里は静寂の中で口を開いた。
「……鍋島さんがいると、ちゃんと休めます」
言ってから、自分でも少し驚いた。でも、もう取り消せなかった。
鍋島はすぐには答えず、少しだけ目を細めてこちらを見ていた。
「それはよかったです」
「よくないです。一人でも平気なつもりだったのに、これじゃ……」
「平気じゃなくても、いいんじゃないですか」
鍋島の声は、いつになく真っ直ぐだった。
平気じゃなくてもいい。
その言葉が、杏里がずっと張ってきた心の糸を、優しく緩めていく。
「……鍋島さん」
「はい」
「今日のメモ、まだ取ってあります。なんだか……捨てにくくて。少しだけ、嬉しかったんです」
それを聞いた鍋島が、一瞬だけ目を丸くした。
そのまま、数秒の沈黙が流れる。気まずいというより、そこだけ温度が上がったような、不思議な沈黙。
「にゃあ」
絶妙なタイミングで、ハヤブサが鍋島の膝に前足を乗せて鳴いた。
「はいはい」
鍋島が苦笑しながらハヤブサを撫でる。その動作に、杏里もようやく肩の力を抜くことができた。
特別なことは、何ひとつ起きていない。
けれど、こうして隣に誰かがいて、温かいお茶を飲んで、猫が丸くなっている。そんな静かな夜が、今の杏里には何より満ち足りたものだった。
鍋島が隣にいる。それだけで、深く息ができる。
その事実を認めてしまった以上、もう以前のような強がりには戻れないのかもしれない。杏里は湯気の向こう側で、ぼんやりとそんな予感を感じていた。




