第32話:やさしくされる夜(1)
夕方のライブを終えて鍋島が帰宅したのは、夜がすっかり深くなってからだった。
玄関のカチャリという鍵の音に、杏里はこたつの中で顔を上げる。熱はもう完全に引いていたが、身体にはまだ薄い膜が張ったようなだるさが残っていた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
聞き慣れた声に自然に応えると、鍋島はコートを脱ぎながら、まず真っ直ぐに杏里の顔を見た。その視線があまりに真剣で、杏里は思わず苦笑を漏らす。
「もう平熱ですからね」
「まだ何も言ってないですよ」
「言う前の顔をしてました。心配しすぎです」
「……まあ、ちょっとは」
鍋島は小さく笑い、居間へ入ってきた。足元ではハヤブサが待ちかねたように寄っていき、彼の足首にすり寄る。
「お出迎えありがとな」
しゃがんで頭を撫でる鍋島の横顔。それを見ているだけで、家の中の空気がふっと落ち着くのを感じる。彼がいることが、いつの間にか「日常」の一部になっていた。
「ライブ、どうでした?」
「いつも通りです。林田も、いつも通りうるさかったです」
あまりに想像通りの答えに、杏里の口元が緩む。
「お腹、空いてますよね。何か作りましょうか」
杏里がこたつから出ようとすると、鍋島がそれを手で制した。
「いや、いいです。座っててください」
「でも」
「今日まで、まだ本調子じゃないでしょう」
言い方は柔らかいのに、有無を言わせない響きがあった。
「熱はもう下がっています」
「知っています。でも、顔色が完全に戻ったわけじゃない」
「……細かいですね」
「観察眼だけはあるので」
さらっと返されて、杏里は口をつぐんだ。
結局、鍋島は冷蔵庫にあるもので手際よく夜食を作り始めた。味噌汁を温め直し、冷やご飯で軽い雑炊を作る。その落ち着いた手つきを眺めているだけで、不思議と身体の毒気が抜けていくような気がした。
「杏里さん」
「はい」
「朝、ちゃんと昼の分も食べてくれたんですね」
ふと言われて、杏里はこたつの端に置いていたスマホを見た。その下には、鍋島が今朝残していったメモが挟んである。
「食べましたよ」
「薬も?」
「……それも、ちゃんと飲みました」
「えらい」
鍋島の言葉に、杏里は眉を寄せた。
「あたし、子どもじゃないんですけど」
「いや、元気になるとすぐ『大丈夫です』に戻る人だから。少し心配だったんですよ」
図星だった。むっとしながらも言い返せない杏里に、鍋島は満足そうに鍋をかき混ぜる。
過保護だな、と思う。けれど、そうやって自分のコンディションを気にかけてもらえることが、今の自分にはひどく甘やかに感じられた。




