第31話:熱のあとに残るもの(2)
翌朝、杏里が居間へ顔を出すと、キッチンでは鍋島が二つのマグカップを並べていた。
身体の重みは多少残っているが、熱は完全に引いている。
「おはようございます。……昨日は、本当にありがとうございました」
椅子を引きながら杏里が言うと、鍋島が振り向いた。
「おはようございます。顔色、だいぶ戻りましたね」
「おかげさまで。……鍋島さんも、昨日はお疲れだったのに、すみませんでした」
「俺は寝ればなんとかなるので。……ただ、杏里さんが熱を出していた時は、さすがに気が気じゃなかったですけど」
さらりと言われたその言葉に、杏里は一瞬、お茶を飲む手が止まった。
「……そういうこと、普通に言いますよね」
「え? ダメでしたか?」
「ダメじゃないですけど……慣れないです」
杏里が視線を逸らすと、鍋島が低く笑った。その笑い声は、昨夜の静かなものよりずっと晴れやかで、二人の間の空気をいつもの「日常」へと引き戻してくれた。
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その日の夕方。三日月ロケットの二人は、ライブ前の楽屋にいた。
林田は鏡の前で入念に髪を整え、鍋島は少し離れた場所で台本をめくっている。けれど、鍋島の意識は半分も文字を追えていなかった。
(薬、ちゃんと飲んだかな……)
朝の杏里の顔色を思い出し、ふとした拍子に心配が頭をもたげる。
「なあ、鍋島」
鏡越しに、林田がニヤニヤしながら声をかけてきた。
「何」
「そういえば、杏里ちゃんとは最近どうなのよ?」
あまりに軽薄なトーンに、鍋島は本気で聞き流しかけた。が、意味を理解した瞬間に顔を上げる。
「……なんでそれをお前に話さなきゃいけないんだ」
「ほらー! やっぱり分かりやすい!」
林田が声を上げて笑った。
「お前、杏里ちゃんの話になると急に反応が速くなるんだよな。心配で仕方ないって顔に書いてあるぜ?」
「お前が余計なことばかり言うからだろ。仕事に集中しろ、万年ナルシスト」
「ひどくない!? まあ、俺が最高に仕上がってるのは事実だけどさ」
林田は前髪を弄りながら、ふっと声を落とした。
「……でも、最近は俺も『一途』かもよ?」
その言葉に、鍋島が思わず眉を寄せる。
「は?」
「いや、何でもない。それより今日の俺、やっぱり完璧じゃない?」
「会話を飛ばすな」
本気か冗談か分からない相棒の態度に、鍋島は小さくため息をついた。けれど、林田は最後、ステージへ向かう扉の前で真面目な顔をしてこう言った。
「鍋島。杏里ちゃんに無理させるなよ。お前、変なところで遠慮するからさ」
「……分かってるよ」
大丈夫じゃないのに大丈夫と言ってしまう杏里。
そんな彼女を、もう放っておけなくなっている自分。
スタッフの声に導かれ、二人は楽屋を出た。
廊下の先にはステージの眩い光が見えている。けれど、鍋島の胸の奥には、まだあの静かな和室の灯りが、消えない余熱のように残り続けていた。




