第31話:熱のあとに残るもの(1)
深い眠りの底から、杏里はふと意識を浮上させた。
身体の奥にまだ重たい熱が沈んでいるものの、昼間のあの焼けるようなだるさは消えている。額の冷却シートが吸い取ってくれた熱の分だけ、思考が少しずつ明瞭になっていく。
部屋の中は、耳が痛くなるほど静かだった。
カーテンの隙間から差し込む光は濃い藍色に染まり、時計の針がずいぶん進んだことを物語っている。
杏里は重いまぶたをそっと持ち上げた。
視線の先、居間と和室の境目あたりにある座椅子に、人影があった。
鍋島だった。
落とされた照明の下、彼は一冊の本を静かに読み耽っている。ページをめくる指先、座る姿勢。そのすべてが、呼吸をするのも忘れるほど静謐な空気を纏っていた。
テレビもついていない。スマホをいじる様子もない。ただ、杏里が眠るそばで、番人のようにそこに座っている。
その姿を確認した瞬間、杏里の胸を締め付けていた見えない緊張が、音を立ててほどけていった。
(……いる)
ただそれだけのことが、どうしてこんなにも波紋のように安心感を広げるのか。
杏里が寝返りを打った気配を察したのか、鍋島がふっと顔を上げた。
「……起きました?」
低く、耳に心地よい響き。
「……はい」
「気分はどうですか」
「さっきより、ずっと楽です」
それを聞いて、鍋島の表情から険しさが消えた。
「なら、よかったです」
彼は再び本に目を落とすわけでもなく、そのまま静かに杏里を見つめていた。必要以上に近づいてくるわけではない。けれど、その適度な距離感こそが、今の杏里には何よりの薬だった。
どうして、この人はここまでしてくれるんだろう。
最初は、同居の「代償」としての家事担当だったはずだ。けれど、今日のこれはもう、契約や条件という言葉では到底説明がつかない気がした。
物件の見学を投げ打ってまで、他人の自分を看病する。
熱に浮かされた頭では、その答えにたどり着くことはできない。けれど、視界の端に彼の静かな横顔があるだけで、十分だった。
「……寝てていいですよ」
鍋島が囁くように言った。
「何かあったら、すぐに呼んでください」
「……はい」
短く応えて、杏里はもう一度目を閉じた。
まだ名前のつけられないあたたかな感情を胸のどこかに抱えたまま、彼女は再び、穏やかな微睡みの海へと沈んでいった。




