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三日月ロケット、居候中  作者: あしゅ太郎


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第30話:行かないで済んだ日(2)

 やがて戻ってきた鍋島の手には、水と薬、そして濡らしたタオルがあった。


「少し、起きられますか」


 背中にそっと手を添えられ、身体を起こす。鍋島の介抱は、必要以上にベタつかず、けれど冷たさもない。その絶妙な距離感が、今はただありがたかった。


 薬を飲み、額に冷たいタオルを当てられると、ようやく人心地がついた。


「スポーツドリンクを買ってきます。あと、ゼリーとか。食べられそうなものを」


「そこまで、しなくていいですよ……」


「します」


 即答だった。


「見学……本当にいいんですか」


「もう、不動産屋にはキャンセルの連絡を入れました。また別の日に設定できます。でも、今の杏里さんには『今日』しかないので」


 その言い方が、あまりにもまっすぐで。杏里は熱のせいだけではない火照りを感じて、視線を逸らした。


 三十分ほどして戻ってきた鍋島は、両手に大きな袋を提げていた。スポーツドリンクに冷却シート、消化に良いうどん、果てはハヤブサの予備のごはんまで。


「買いすぎです……」


「備えですから。こういう時に雑だとダメなんです、俺は」


 鍋島はそのまま台所に立ち、うどんを煮込み始めた。だしの優しい香りが部屋中に広がる。少しして運ばれてきた熱々のうどんを、杏里は一口ずつゆっくりと運んだ。


「……おいしい」


「よかった」


 鍋島の声が、ふっと和らぐ。


 食事を終え、再び横になった。鍋島は手際よく後片付けを済ませ、ハヤブサを撫でてから、再び布団のそばに座った。


「何かあったら、すぐ呼んでくださいね」


「……鍋島さん」


「はい」


「本当に、行かなくてよかったんですか」


 鍋島は少し沈黙し、それから膝の上の自分の手を見つめて静かに言った。


「……よかったかどうかで言えば、今日こうなって、むしろ考えてしまいました」


「何を、ですか」


「自分が出ていったら、杏里さんはまた一人で全部やるんだろうな、って」


 杏里は目を開け、彼の表情を盗み見た。落ち着いているが、その声には重い響きがある。


「風邪をひいても無理して起きて、一人で平気なフリをして、できるところまでやろうとする。それを見たら……安心して出ていける自信、正直あんまりないです」


 胸の奥がきゅっと縮まった。


「……私が、ちゃんとしてないだけです」


「ちゃんとしてるから、無理をするんでしょう。俺は、そういうところが……心配なんです」


 杏里は瞼を伏せた。いつまでもここにいてもらうわけにはいかない。それは分かっているはずなのに。


「……ずるいです」


「え?」


「そういうこと、今言うの。熱がある時に……」


「すみません」


 鍋島は苦笑した。


「でも、今日はいてくれてよかったです」


 杏里の絞り出すような本音に、鍋島はすぐには返事をしなかった。けれど少しして、「はい」とだけ、静かに、けれど確かに返ってきた。


 ハヤブサが布団の端で丸くなる。台所には、まだ微かにだしの匂いが残っている。


 物件の見学には行けなかった。一歩前へ進むはずの予定は、白紙に戻った。


 でも、それが正解だったのかどうかは、もうどうでもよかった。


 少なくとも今日、鍋島が隣にいてくれた。その事実だけが、杏里の身体をゆっくりと眠りへと誘っていった。



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