第30話:行かないで済んだ日(1)
久しぶりに、静かな朝だった。
年始の慌ただしさがようやく落ち着き、鍋島は今日、まとまった休みを取っていた。本来ならその休みを使い、彼は物件の見学に行く予定だった。
昨夜、スマホで地図を開きながら、不動産会社から送られてきた資料を熱心に確認していた鍋島の姿を、杏里は覚えている。駅からの距離、間取り、築年数。そんな現実的な数字を一つずつなぞる彼の横顔を見ながら、杏里の胸の奥は、正体のしれないざわつきに支配されていた。
(次の部屋が見つかるまで――)
そう言い出したのは自分だ。彼が新しい一歩を踏み出すのは当然のことで、応援すべきことなのだ。そう自分に言い聞かせても、朝になってもモヤのような重たい気持ちは晴れなかった。
けれどそのざわつきは、目を覚ました瞬間に別の感覚へとすり替わった。
身体が、鉛のように重い。
頭の芯がずきずきと痛み、喉には熱い塊が詰まっているようだった。杏里は布団の中で薄く目を開けたが、あまりの不快感にすぐにまた瞼を閉じた。
(……風邪だ。しかも、結構ひどいやつ)
起き上がらなければ、と思うのに、手足に力が入らない。
襖の向こうで、ハヤブサが短く鳴く声がした。続いて、台所から小さく食器の触れ合う音が聞こえてくる。鍋島は、もう活動を始めているらしい。
杏里はゆっくりと息を吸い込んだ。今日だけは、こんなところで寝込んでいる場合ではない。鍋島には大切な予定がある。彼が自立するための大事な一日を、自分の体調不良で邪魔するわけにはいかなかった。
気力を振り絞り、どうにか上体を起こそうとした瞬間、視界がぐらりと歪んだ。
「……っ」
思わず布団に手をついて耐える。けれど、呼吸は荒くなる一方だった。
そこへ、襖がわずかに開く気配がした。
「杏里さん? 起きてますか」
鍋島の声だった。返事をしようとしたが、声が掠れてうまく出ない。
「……はい」
ようやく絞り出したその一言だけで、彼は何かを察したようだった。足音が急ぎ足で近づいてくる。
「どうしました」
鍋島が枕元にしゃがみ込んだ。
「ちょっと……調子が……」
「ちょっと、じゃなさそうですけど」
鍋島の手が、迷いなく杏里の額に触れる。その指先の冷たさが心地よくて、杏里は思わず吐息を漏らした。それと同時に、鍋島の眉が深く寄せられる。
「すごい熱だ」
「……あります?」
「ありますね。かなり」
鍋島はきっぱりと言った。杏里は布団の端をぎゅっと握りしめる。
「でも、鍋島さん……今日は……」
「物件の見学ですよね。それはいいんです、もう」
「よくないです。せっかくの休み、なのに」
「それでもです」
鍋島の声は静かだったが、そこには拒絶を許さない強さがあった。
「今日はキャンセルします。この状態の杏里さんを一人にはできません」
「一人でも……大丈夫、です……」
「杏里さん」
「こんなことじゃ……鍋島さんが安心して、出ていけないじゃないですか」
言葉を継ぐごとに、肺が痛む。
熱に浮かされた頭で、杏里は本音を溢していた。彼がいなくなったら、自分はまた全部一人で抱えなければならない。買い物も、食事も、自分とハヤブサの生活も。今まで当たり前にやってきたはずのことが、今はひどく恐ろしいものに思えた。
鍋島はしばらくの間、無言で杏里を見つめていた。やがて、少しだけ声を低くして言った。
「……そうやって無理をする人だから、安心して出ていけないんですよ」
杏里はそれ以上、何も言えなかった。
鍋島が一度立ち上がり、体温計を持ってきた。測ってみれば、数字は三十八度をゆうに超えている。
「ほら、やっぱり。一人で大丈夫って言える数字じゃないです」
鍋島は溜息まじりに言いながら、すぐに動き始めた。お湯を沸かす音、冷蔵庫を開ける音、引き出しを探る音。その一つひとつが、弱った今の杏里には驚くほど頼もしく響く。
ハヤブサが異変を察したのか、布団の近くに寄ってきて「にゃあ」と小さく鳴いた。杏里が細い手を伸ばすと、ハヤブサは布団の上に前足をかけ、心配そうにこちらを覗き込んでくる。




