第29話:好きの置き場所(2)
打ち合わせを終え、三人でレッスンルームのあるフロアから廊下へ出た。年始の事務所内は、どこか余所余所しく、いつもより静まり返っている。
廊下の角、ペットボトルの自販機の前。そこに、見覚えのある落ち着いた後ろ姿があった。
黒っぽい上着に、少し猫背気味の立ち姿。なべさんだ。
ちょうど小銭を入れているところらしく、硬貨が落ちる乾いた音が響いた。
「あ、なべさんだ」
みみぃが先に声を上げる。
ゆみりんの心臓が、その瞬間、一回だけ強く跳ねた。けれど、以前のように足が竦むことはなかった。
なべさんが振り向き、三人に気づく。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
ゆみりんの声は、驚くほど自然に出た。
「レッスン終わりですか?」
「はい。今、打ち合わせも終わりました。なべさんは?」
「ちょっと別の打ち合わせがあって。その前に飲み物を買いに」
なべさんは少しだけ笑い、自販機の取り出し口からお茶のペットボトルを取り出した。
「この建物の自販機、地味に種類少ないですよね」
みみぃが隣で口を挟む。
「分かります。選ぶ前から、もうだいたい決まってますもんね」
「わかるー」
楽しそうに笑う二人の横で、ふわっちがぼんやりとディスプレイを見つめていた。
「……コーンポタージュ、ない」
「ふわっち、それ年中探してるよね」
ゆみりんが突っ込むと、ふわっちは真顔で「大事だから」と頷く。なべさんがそれを見て、ふっと目元を和らげた。
「寒いので、気をつけて帰ってくださいね」
去り際、さりげなく投げかけられた優しい言葉。
やっぱり、こういうところが好きなんだと思う。けれど、その優しさが自分だけのものではないことも、今は知っている。
「なべさんも、お疲れさまです」
ゆみりんは、まっすぐな笑顔でそう返した。
なべさんが軽く会釈して、廊下の向こうへと歩いていく。その背中を見送りながら、みみぃが横から顔を覗き込んできた。
「……で? まだ好き?」
「好きだよ」
ゆみりんは迷わず答えた。
「でも、ちゃんとやる。そっちの方がかっこいいし」
恋をなくしたわけじゃない。無理に手放したわけでもない。
ただ、胸の中の置き場所を、少しだけ変えただけだ。
その気持ちを抱えたままでも、自分はちゃんと踊れる。前よりもずっと、強く。
「仕事してるゆみりん、かっこいいよ」
ふわっちの言葉に、ゆみりんは少しだけ照れたように笑った。
鏡の中の自分は、さっきよりも少しだけ、胸を張っているように見えた。




