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三日月ロケット、居候中  作者: あしゅ太郎


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6/12

第3話:足場のない夜、交わした名前

 ライブが終わって数日が経っても、あの時の会話は妙に頭に残っていた。


『何とかしますよ』


 そう言った鍋島の声は軽く聞こえたのに、思い出すたびに少しだけ胸に引っかかる。


 たぶん、それは「軽く言い慣れている」人の声だったからだ。


 いつも通り仕事をして、いつも通り家に帰る。


 店で接客をしている間は忙しさで紛れるけれど、ふと息をつくと、意識が勝手にあの日へ飛んでしまう。


(今日はちゃんと帰れているのかな。まだあちこち、泊まり歩いているのかな……)


 自分でも変だと思う。あたしが気にしたところで、どうにかなる問題じゃないのに。


「藍原さん、この値札お願いしまーす」


「あ、はい」


 呼ばれて我に返る。杏里は受け取った札を手に、足早に棚へ向かった。


 平日の商業施設は、週末に比べればずっと静かだ。それでも夕方が近づくにつれて仕事帰りの客が増え、店内には少しずつ活気が戻ってくる。


 ぼんやりしていた頭を切り替えて作業をしていると、バックヤードから出てきた先輩スタッフが、何気なく口を開いた。


「そういえば今日、ライブブースで何かあるみたいだよ。さっき準備してる音がしてた」


「へえ、そうなんですね」


 短く返して、手元の雑貨を並べ直す。


 ライブがあるからといって、毎回結衣が来るわけじゃない。今日は平日だし、あいつも仕事のはずだ。


 そう思った矢先、スマホに通知が入った。


『今日ちょっとだけ寄るね!』


『仕事終わりに顔出すだけだから』


『三日月ロケット出るし!』


 最後の一文を見て、杏里は思わず画面を凝視した。


 なんで今日に限って。いや、結衣なら少しもおかしくはない。おかしくないのに、心臓がほんの少しだけ、変な跳ね方をした。


『終わったら待ってるよ』


 短く返して、スマホをポケットにしまう。


 会う約束をしているのは結衣であって、鍋島さんじゃない。そう自分に言い聞かせても、妙に意識してしまう自分が少しだけ面倒だった。


 閉店作業を終えて従業員用出入口を出ると、初冬の夜風が首筋を冷たく撫でた。


 駐車場へ向かいながらスマホを確認すると、結衣から即座に連絡が入る。


『今、ライブ終わった!』


『なべさんたち、もうすぐ出てくると思う』


『先に駐車場のほうにいるね』


 なんでそんな実況みたいに送ってくるんだろう。


 呆れながら歩いていると、案の定、通路脇に結衣が立っていた。今日は仕事帰りらしく、アメリカンカジュアルなブルゾンにデニム姿。相変わらず棒付きキャンディーをくわえている。


「お疲れさま」


「お疲れ! 今日、短いステージだったけど面白かったよ」


「そっか」


「何その適当な返事」


「普通でしょ」


 結衣が言い返そうとした、その時だった。


「あ」


 先に気づいたのは結衣の方だった。視線を追うと、通路の向こうから鍋島と林田が歩いてくるのが見えた。


 二人ともすでに私服に着替えている。林田はゆるいパーカーにキャップ、鍋島はシンプルなシャツにジャケット。ステージの時とは空気が違うけれど、どちらが誰かは遠目でもすぐに分かった。


「お疲れさまでーす!」


 結衣が軽く手を振る。


「あ、お疲れ! 今日も来てたんだ」


 林田が先に気づいて応じた。


「ちょっとだけですけどね」


「ちょっとでも来るのは偉いな。ファンの鏡じゃん」


「林田、そういう軽い褒め方しないの」


「別に軽く褒めてないって」


 そのやり取りのあと、鍋島が杏里の方に視線を向けた。


「杏里さん」


「……こんばんは」


「仕事帰りですか?」


「そうです」


「そっか。お疲れさまです」


 ただそれだけの会話。なのに、結衣と話す時よりも、少しだけ周りの空気が静かになった気がする。


 立ち話をするには通路が狭かったので、四人で少し脇へ寄った。林田が「今日、ちょっと暑くなかった?」と自分の首元をパタパタさせ、その流れで近くのガラスに映る自分を見ながら髪を整え始める。


 結衣がすぐに吹き出した。


「また見てるし」


「見るだろ。ライブ終わりだよ?」


「その理屈、全然分かんないんだけど」


「いや、分かるって。今日の照明の当たり方、最高だったし。答え合わせしたくなるじゃん。自分の仕上がりの」


 真顔で返されて、杏里も少しだけ口元が緩んだ。


「林田、本当にブレないな」


 鍋島が呆れたように言う。


「ブレてたら華が死ぬだろ?」


「『華』って自分で言うんだね」


「言うよ。そこは自覚してないと」


 やっぱり、ちょっと変な人だ。でも本人があまりに自然体だから、嫌味よりも先に笑いが込み上げてくる。


「あ、杏里ちゃん笑ってる」


 林田に指摘され、杏里は少し顔をそらした。


「……いや、だって」


「だろ?」


 林田が満足げに頷く。


「言っておくけど、これ天然だからね」


 鍋島がさらりと言い添える。


「え、今それ悪口?」


「事実だよ」


「失礼だなあ」


 そんなやり取りのあと、結衣がふと思い出したように鍋島を見た。


「その後、少しは落ち着いたんですか?」


 鍋島は一瞬だけ表情を止め、それからいつもの穏やかな顔に戻った。


「……まだ、ちょっと」


 短い返事だけで、詳しくは言わない。けれどその曖昧な口ぶりで、あまり状況が変わっていないことは何となく察せられた。


 林田が横で肩をすくめる。


「まあ、鍋島はそう言うよな」


 それ以上は深掘りされないまま、話題は別の方向へ流れていく。けれど杏里の中には、妙な引っかかりが残った。


(やっぱり、まだ困っているんだ)


 その時、結衣のスマホが鳴った。


「うわ、会社からだ……。ちょっとごめん、出てもいい?」


「どうぞ」


 杏里が促すと、結衣は「最悪」と小さく呟きながら少し離れた場所へ移動した。


 急に会話の人数が減り、密度が変わる。林田はその変化を気にする風もなく、スマホで時間を確認した。


「あ、やばい」


「何?」


「今日、あいつの引っ越し手伝うんだった。新しく一緒に住む後輩。荷物運ぶって言ったまま忘れてた」


「最低だな、お前」


「いや、今思い出したからセーフだよ!」


 何がセーフなんだろう。杏里はそう思ったけれど、林田本人は平然とした顔だ。


「ってことで、俺は先に失礼するわ。電車まだ間に合うし」


「お前さ、自分の予定の雑さをどうにかしたほうがいいよ」


「でも顔は仕上がってるから問題ない」


「問題しかないんだよ」


 林田は真顔で言いながら、最後にスマホの黒い画面に映る自分をチェックした。


「じゃ、鍋島、あんまり遅くなるなよ」


「お前こそちゃんと手伝えよ」


 林田は駅の方へ向かって、軽快な足取りで歩いていった。


 最後まで調子が軽い。けれど、その背中が見えなくなると、残されたのは杏里と鍋島、それから少し離れた場所で通話中の結衣だけだった。


 駐車場の灯りは少し青白くて、夜の空気はまだ冷たい。さっきまでの賑やかさが引いた分、静けさが急に近くに感じられた。


 杏里は無意識に指先を握り込む。聞いていいことなのか分からない。でも、気になっているのは本当だった。


「……まだ、ちゃんと休めていないんですか?」


 鍋島が少しだけ目を丸くした。それから、困ったように笑う。


「休めていない、っていうか。落ち着いていないですね、まだ」


「……そうですか」


「すみません。なんか、気を遣わせちゃって」


 そう言われると、余計に居心地が悪い。気を遣っているのは本当だけど、そんなふうに受け取られたいわけでもなかった。


「別に、気を遣っているっていうか……」


 言いかけて、言葉が続かない。でも、鍋島は急かさなかった。


「前にも、そういうことがあったんですか?」


 少し迷ってから、杏里は聞いた。


 鍋島は一度だけ視線を落とす。


「住むところの話とは違うけど。前のコンビが終わった時とかは、まあ……。急に足場がなくなる感じは、知っているので」


 鍋島には、林田と組む前に別の相方がいた。引退したらしいという話は、結衣から聞いたことがある。けれど本人の口から出ると、急にその「不在」が重みを増した。


「……すみません。変なこと聞いちゃって」


「いや」


 鍋島は首を振った。


「別に隠してるわけじゃないし」


 その声は静かだった。静かで、でも少しだけ、疲れているようにも聞こえた。


 杏里は胸の奥がじわっと重くなるのを感じた。両親がうまくいかなくなって、居場所がないように思えたあの頃の記憶が、ほんの少しだけ胸の底で揺れる。


 帰る場所がないという感覚は、思っている以上にきついものだ。きっと、この人も今、そんな寒さの中にいるんだろう。


 その時、鍋島が少し迷うような顔をしたあと、意を決したように口を開いた。


「……もし、迷惑じゃなければなんですけど」


「え?」


「連絡先、交換してもいいですか?」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。鍋島はすぐに続ける。


「この前も今日も、すごく気にかけてもらっているのに、結衣さん経由でしか連絡手段がないのも不自然かなと思って」


「結衣は、連絡先知らないんですか?」


「知らないです。ファンの人ですし」


「……そっか」


「何かあった時だけでいいです。本当に必要な時だけ」


 その言い方がひどく遠慮がちで、むしろ断りにくかった。軽く聞いているんじゃないと分かる。それが逆に、杏里の胸をかすかに震わせた。


「……あたしで、いいんですか」


「杏里さんの家にお邪魔したのに、ずっと第三者経由なのも違う気がして」


 少し考えてから、杏里は小さく息を吐いた。


「……必要な時だけ、ですよ」


「もちろん」


 鍋島がほんの少しだけ表情を緩める。


「むしろそれ以外で使ったら、だいぶ怖いですしね」


「それはそうですね」


 少しだけ笑ってしまった。


 杏里はスマホを取り出し、画面を開く。連絡先を交換するなんて、ただそれだけのことなのに、妙に手元が落ち着かなかった。


 画面に、新しい名前が表示される。


鍋島 映司(なべしま えいじ)


 あまりに普通にそこにあるのが、逆に不思議だった。


「送ります」


「はい」


 短い通知音が鳴り、鍋島が小さく頷いた。


「届きました」


「なら良かったです」


「ありがとうございます」


 また、まっすぐ礼を言われる。そのたびに落ち着かなくなるのは、きっと、まだ慣れていないからだ。


 少し離れたところで、結衣が通話を終えて戻ってくるのが見えた。


「ごめん、長くなっちゃった」


「大丈夫だった?」


「大丈夫じゃないけど終わったよ……」


 肩を落とす結衣。鍋島が「林田は後輩の引っ越し手伝いで先に帰ったよ」と伝えると、結衣は「雑すぎる!」と呆れ、空気がまたいつもの調子に戻った。


 別れ際、鍋島はもう一度杏里を見た。


「仕事終わりなのに、ありがとうございました」


「別に……」


「それでも、です」


 その声が少しだけ柔らかくて、杏里はもう一度だけ会釈した。


 帰りの車の中。結衣は仕事の愚痴をひとしきり話したあと、急に思い出したように杏里を見た。


「さっき、なべさんと何か話してた?」


「普通に話してただけだよ」


「本当に?」


「何さ」


「いや、ちょっと空気が違った気がして」


「結衣の勘、本当に怖いんだけど」


「でしょ!」


 得意げな結衣を見て、杏里はため息をついた。


 信号待ちで止まる。赤い光の中で、さっき交換したばかりの連絡先が頭に浮かぶ。


 まだ、何も始まっていない。ただ必要があって繋がっただけだ。


 けれど、結衣だけが知っていた人ではなくなった。ライブブースで見るだけの人でもなくなった。そのことが、ほんの少しだけ、心をざわつかせる。


「ねえ、杏里」


「なに」


「今、ちょっと変な顔してる」


「何それ」


「何か考えてる顔」


「……考えてないよ」


「嘘だ」


 青に変わった信号を見て、杏里はアクセルを踏んだ。


 考えている。たぶん、自分でも驚くほど。


 けれど、それを認めてしまうには、まだ少しだけ早い気がした。



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