第3話:足場のない夜、交わした名前
ライブが終わって数日が経っても、あの時の会話は妙に頭に残っていた。
『何とかしますよ』
そう言った鍋島の声は軽く聞こえたのに、思い出すたびに少しだけ胸に引っかかる。
たぶん、それは「軽く言い慣れている」人の声だったからだ。
いつも通り仕事をして、いつも通り家に帰る。
店で接客をしている間は忙しさで紛れるけれど、ふと息をつくと、意識が勝手にあの日へ飛んでしまう。
(今日はちゃんと帰れているのかな。まだあちこち、泊まり歩いているのかな……)
自分でも変だと思う。あたしが気にしたところで、どうにかなる問題じゃないのに。
「藍原さん、この値札お願いしまーす」
「あ、はい」
呼ばれて我に返る。杏里は受け取った札を手に、足早に棚へ向かった。
平日の商業施設は、週末に比べればずっと静かだ。それでも夕方が近づくにつれて仕事帰りの客が増え、店内には少しずつ活気が戻ってくる。
ぼんやりしていた頭を切り替えて作業をしていると、バックヤードから出てきた先輩スタッフが、何気なく口を開いた。
「そういえば今日、ライブブースで何かあるみたいだよ。さっき準備してる音がしてた」
「へえ、そうなんですね」
短く返して、手元の雑貨を並べ直す。
ライブがあるからといって、毎回結衣が来るわけじゃない。今日は平日だし、あいつも仕事のはずだ。
そう思った矢先、スマホに通知が入った。
『今日ちょっとだけ寄るね!』
『仕事終わりに顔出すだけだから』
『三日月ロケット出るし!』
最後の一文を見て、杏里は思わず画面を凝視した。
なんで今日に限って。いや、結衣なら少しもおかしくはない。おかしくないのに、心臓がほんの少しだけ、変な跳ね方をした。
『終わったら待ってるよ』
短く返して、スマホをポケットにしまう。
会う約束をしているのは結衣であって、鍋島さんじゃない。そう自分に言い聞かせても、妙に意識してしまう自分が少しだけ面倒だった。
閉店作業を終えて従業員用出入口を出ると、初冬の夜風が首筋を冷たく撫でた。
駐車場へ向かいながらスマホを確認すると、結衣から即座に連絡が入る。
『今、ライブ終わった!』
『なべさんたち、もうすぐ出てくると思う』
『先に駐車場のほうにいるね』
なんでそんな実況みたいに送ってくるんだろう。
呆れながら歩いていると、案の定、通路脇に結衣が立っていた。今日は仕事帰りらしく、アメリカンカジュアルなブルゾンにデニム姿。相変わらず棒付きキャンディーをくわえている。
「お疲れさま」
「お疲れ! 今日、短いステージだったけど面白かったよ」
「そっか」
「何その適当な返事」
「普通でしょ」
結衣が言い返そうとした、その時だった。
「あ」
先に気づいたのは結衣の方だった。視線を追うと、通路の向こうから鍋島と林田が歩いてくるのが見えた。
二人ともすでに私服に着替えている。林田はゆるいパーカーにキャップ、鍋島はシンプルなシャツにジャケット。ステージの時とは空気が違うけれど、どちらが誰かは遠目でもすぐに分かった。
「お疲れさまでーす!」
結衣が軽く手を振る。
「あ、お疲れ! 今日も来てたんだ」
林田が先に気づいて応じた。
「ちょっとだけですけどね」
「ちょっとでも来るのは偉いな。ファンの鏡じゃん」
「林田、そういう軽い褒め方しないの」
「別に軽く褒めてないって」
そのやり取りのあと、鍋島が杏里の方に視線を向けた。
「杏里さん」
「……こんばんは」
「仕事帰りですか?」
「そうです」
「そっか。お疲れさまです」
ただそれだけの会話。なのに、結衣と話す時よりも、少しだけ周りの空気が静かになった気がする。
立ち話をするには通路が狭かったので、四人で少し脇へ寄った。林田が「今日、ちょっと暑くなかった?」と自分の首元をパタパタさせ、その流れで近くのガラスに映る自分を見ながら髪を整え始める。
結衣がすぐに吹き出した。
「また見てるし」
「見るだろ。ライブ終わりだよ?」
「その理屈、全然分かんないんだけど」
「いや、分かるって。今日の照明の当たり方、最高だったし。答え合わせしたくなるじゃん。自分の仕上がりの」
真顔で返されて、杏里も少しだけ口元が緩んだ。
「林田、本当にブレないな」
鍋島が呆れたように言う。
「ブレてたら華が死ぬだろ?」
「『華』って自分で言うんだね」
「言うよ。そこは自覚してないと」
やっぱり、ちょっと変な人だ。でも本人があまりに自然体だから、嫌味よりも先に笑いが込み上げてくる。
「あ、杏里ちゃん笑ってる」
林田に指摘され、杏里は少し顔をそらした。
「……いや、だって」
「だろ?」
林田が満足げに頷く。
「言っておくけど、これ天然だからね」
鍋島がさらりと言い添える。
「え、今それ悪口?」
「事実だよ」
「失礼だなあ」
そんなやり取りのあと、結衣がふと思い出したように鍋島を見た。
「その後、少しは落ち着いたんですか?」
鍋島は一瞬だけ表情を止め、それからいつもの穏やかな顔に戻った。
「……まだ、ちょっと」
短い返事だけで、詳しくは言わない。けれどその曖昧な口ぶりで、あまり状況が変わっていないことは何となく察せられた。
林田が横で肩をすくめる。
「まあ、鍋島はそう言うよな」
それ以上は深掘りされないまま、話題は別の方向へ流れていく。けれど杏里の中には、妙な引っかかりが残った。
(やっぱり、まだ困っているんだ)
その時、結衣のスマホが鳴った。
「うわ、会社からだ……。ちょっとごめん、出てもいい?」
「どうぞ」
杏里が促すと、結衣は「最悪」と小さく呟きながら少し離れた場所へ移動した。
急に会話の人数が減り、密度が変わる。林田はその変化を気にする風もなく、スマホで時間を確認した。
「あ、やばい」
「何?」
「今日、あいつの引っ越し手伝うんだった。新しく一緒に住む後輩。荷物運ぶって言ったまま忘れてた」
「最低だな、お前」
「いや、今思い出したからセーフだよ!」
何がセーフなんだろう。杏里はそう思ったけれど、林田本人は平然とした顔だ。
「ってことで、俺は先に失礼するわ。電車まだ間に合うし」
「お前さ、自分の予定の雑さをどうにかしたほうがいいよ」
「でも顔は仕上がってるから問題ない」
「問題しかないんだよ」
林田は真顔で言いながら、最後にスマホの黒い画面に映る自分をチェックした。
「じゃ、鍋島、あんまり遅くなるなよ」
「お前こそちゃんと手伝えよ」
林田は駅の方へ向かって、軽快な足取りで歩いていった。
最後まで調子が軽い。けれど、その背中が見えなくなると、残されたのは杏里と鍋島、それから少し離れた場所で通話中の結衣だけだった。
駐車場の灯りは少し青白くて、夜の空気はまだ冷たい。さっきまでの賑やかさが引いた分、静けさが急に近くに感じられた。
杏里は無意識に指先を握り込む。聞いていいことなのか分からない。でも、気になっているのは本当だった。
「……まだ、ちゃんと休めていないんですか?」
鍋島が少しだけ目を丸くした。それから、困ったように笑う。
「休めていない、っていうか。落ち着いていないですね、まだ」
「……そうですか」
「すみません。なんか、気を遣わせちゃって」
そう言われると、余計に居心地が悪い。気を遣っているのは本当だけど、そんなふうに受け取られたいわけでもなかった。
「別に、気を遣っているっていうか……」
言いかけて、言葉が続かない。でも、鍋島は急かさなかった。
「前にも、そういうことがあったんですか?」
少し迷ってから、杏里は聞いた。
鍋島は一度だけ視線を落とす。
「住むところの話とは違うけど。前のコンビが終わった時とかは、まあ……。急に足場がなくなる感じは、知っているので」
鍋島には、林田と組む前に別の相方がいた。引退したらしいという話は、結衣から聞いたことがある。けれど本人の口から出ると、急にその「不在」が重みを増した。
「……すみません。変なこと聞いちゃって」
「いや」
鍋島は首を振った。
「別に隠してるわけじゃないし」
その声は静かだった。静かで、でも少しだけ、疲れているようにも聞こえた。
杏里は胸の奥がじわっと重くなるのを感じた。両親がうまくいかなくなって、居場所がないように思えたあの頃の記憶が、ほんの少しだけ胸の底で揺れる。
帰る場所がないという感覚は、思っている以上にきついものだ。きっと、この人も今、そんな寒さの中にいるんだろう。
その時、鍋島が少し迷うような顔をしたあと、意を決したように口を開いた。
「……もし、迷惑じゃなければなんですけど」
「え?」
「連絡先、交換してもいいですか?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。鍋島はすぐに続ける。
「この前も今日も、すごく気にかけてもらっているのに、結衣さん経由でしか連絡手段がないのも不自然かなと思って」
「結衣は、連絡先知らないんですか?」
「知らないです。ファンの人ですし」
「……そっか」
「何かあった時だけでいいです。本当に必要な時だけ」
その言い方がひどく遠慮がちで、むしろ断りにくかった。軽く聞いているんじゃないと分かる。それが逆に、杏里の胸をかすかに震わせた。
「……あたしで、いいんですか」
「杏里さんの家にお邪魔したのに、ずっと第三者経由なのも違う気がして」
少し考えてから、杏里は小さく息を吐いた。
「……必要な時だけ、ですよ」
「もちろん」
鍋島がほんの少しだけ表情を緩める。
「むしろそれ以外で使ったら、だいぶ怖いですしね」
「それはそうですね」
少しだけ笑ってしまった。
杏里はスマホを取り出し、画面を開く。連絡先を交換するなんて、ただそれだけのことなのに、妙に手元が落ち着かなかった。
画面に、新しい名前が表示される。
『鍋島 映司』
あまりに普通にそこにあるのが、逆に不思議だった。
「送ります」
「はい」
短い通知音が鳴り、鍋島が小さく頷いた。
「届きました」
「なら良かったです」
「ありがとうございます」
また、まっすぐ礼を言われる。そのたびに落ち着かなくなるのは、きっと、まだ慣れていないからだ。
少し離れたところで、結衣が通話を終えて戻ってくるのが見えた。
「ごめん、長くなっちゃった」
「大丈夫だった?」
「大丈夫じゃないけど終わったよ……」
肩を落とす結衣。鍋島が「林田は後輩の引っ越し手伝いで先に帰ったよ」と伝えると、結衣は「雑すぎる!」と呆れ、空気がまたいつもの調子に戻った。
別れ際、鍋島はもう一度杏里を見た。
「仕事終わりなのに、ありがとうございました」
「別に……」
「それでも、です」
その声が少しだけ柔らかくて、杏里はもう一度だけ会釈した。
帰りの車の中。結衣は仕事の愚痴をひとしきり話したあと、急に思い出したように杏里を見た。
「さっき、なべさんと何か話してた?」
「普通に話してただけだよ」
「本当に?」
「何さ」
「いや、ちょっと空気が違った気がして」
「結衣の勘、本当に怖いんだけど」
「でしょ!」
得意げな結衣を見て、杏里はため息をついた。
信号待ちで止まる。赤い光の中で、さっき交換したばかりの連絡先が頭に浮かぶ。
まだ、何も始まっていない。ただ必要があって繋がっただけだ。
けれど、結衣だけが知っていた人ではなくなった。ライブブースで見るだけの人でもなくなった。そのことが、ほんの少しだけ、心をざわつかせる。
「ねえ、杏里」
「なに」
「今、ちょっと変な顔してる」
「何それ」
「何か考えてる顔」
「……考えてないよ」
「嘘だ」
青に変わった信号を見て、杏里はアクセルを踏んだ。
考えている。たぶん、自分でも驚くほど。
けれど、それを認めてしまうには、まだ少しだけ早い気がした。




