第4話:うちでよければ
連絡先を交換したあとも、杏里の毎日は劇的には変わらなかった。
朝になれば起きて、仕事へ行き、接客をして、値札を貼り替え、レジを打つ。たまに結衣と他愛ないやり取りをして、帰ればいつもの家が待っている。
鍋島のことは気になっていた。けれど、だからといって一日中そのことばかり考えているわけでもない。
忙しい時は普通に忘れるし、夕飯を何にするかの方がよっぽど切実な日もある。
ただ、ふとした瞬間に思い出すのだ。
(あの人、今日はちゃんと眠れているのかな。まだ荷物を持って、あちこち移動しているのかな……)
それだけだった。それだけのはずなのに、喉に引っかかった小骨みたいに、どうしても完全には消えてくれなかった。
その日も、仕事を終えて帰宅した頃には、すでに九時を回っていた。
玄関の灯りをつけ、靴を脱ぎ、居間へ入る。静まり返った家の空気が、いつも通りに杏里を迎える。
「ただいま」
誰もいないのに口に出してしまうのは、もう癖のようなものだ。
手早く夕飯を済ませて、食器を洗い終わった頃、居間のソファに深く体を沈めた。
テレビもつけずにぼんやりしていたけれど、不意に、以前結衣が言った言葉を思い出した。
『テレビも面白いのに。もったいないなあ』
たしか、三日月ロケットの話をしていた時だ。
「……テレビも面白い、か」
誰に言うでもなく呟いて、リモコンに手を伸ばした。
なんとなくつけたチャンネルでは、ちょうど若手芸人の下積み時代を特集する番組が流れていた。
深夜のバイトを終えてから朝のライブに立つ人。
交通費を浮かせるために何駅分も歩く人。
ネタ合わせの場所がなくて、深夜のファミレスや公園で時間を潰す人。
『相方と会う時間より、バイト先の人と会う時間の方が長いですよ』なんて、自嘲気味に笑う人。
画面の中に、三日月ロケットの姿はない。けれど、杏里には分かってしまった。
あの人たちも、決して別の世界の住人ではないのだ。同じ土俵の上で、同じように生活を削りながら、必死に立っている人たち。
鍋島の、あの穏やかな顔が浮かぶ。
『何とかしますよ』
あの言い方の裏に、どれほどの無理を詰め込んでいたんだろう。
テレビを消すと、部屋の静けさが急に重くなった。
杏里はテーブルの上のスマホへ目を向ける。少し迷ってから、意を決して手を伸ばした。
連絡先を開き、『鍋島 映司』の名前を押す指先がかすかに震える。
何て送ればいいんだろう。いきなり長い文は変だし、気遣いすぎるのも違う。けれど、何も送らずに閉じるには、今の自分は少しだけ踏み込みたくなっていた。
『新しい住むところ、決まりましたか?』
送信した直後、すぐに後悔が襲ってきた。唐突すぎただろうか。
けれど取り消す間もなく、既読がついた。思ったよりずっと早く、返信が届く。
『まだです。何とか探してはいるんですけど、なかなか難しくて』
その文面を見て、杏里は小さく息を止めた。
やっぱり、まだなんだ。
「何とか」探している。その言い方がいかにも彼らしくて、胸の奥がきゅっと痛んだ。
スマホを持ったまま、杏里はしばらく動けなかった。
今ならまだ、ここで引き返せる。「そうですか、大変ですね」で終わればいい。
けれど、もう一つの言葉が、喉元まで出かかっていた。
『うちにおいで』
かつておばあちゃんが、困っていた親戚や知人に当たり前のようにかけていた言葉。その時の、穏やかで迷いのない声を、杏里は今でもはっきり思い出せる。
(今、おばあちゃんなら……きっとこうする)
その確信は、驚くほど自然に杏里の背中を押した。
深く呼吸をして、もう一度画面に文字を打ち込む。
『うちでよければ、しばらくいても大丈夫ですよ』
送った瞬間、心臓が耳元で鳴っているかと思うほど激しく脈打った。
「……送っちゃった」
ソファに沈み込み、両手で顔を覆う。
何を考えているんだろう、自分は。男の人を家に置くなんて、普通に考えればおかしい。知り合って間もない相手なら、なおさらだ。
けれど、届いた返信は意外なものだった。
『本気で言ってます?』
その一文に、杏里は思わず吹き出してしまった。
飛びつくわけでもなく、まずそこを確認するあたりが、彼らしくて安心した。
『本気です。無理なら無理でいいので』
少し強気に送ると、今度は返事が来るまで少し時間が空いた。
やがて届いた言葉は、丁寧で、切実だった。
『正直、すごく助かります。でも、さすがに簡単に甘えていい話じゃないので。ちゃんと条件とかを決めてもらって、その上でなら、お願いしたいです』
その文面を見て、杏里は深く息を吐いた。
軽い気持ちで受け取ったわけじゃない。それが分かっただけで、十分だった。
『じゃあ、一度ちゃんと話しましょう。あとで困るのも嫌なので』
すぐに『分かりました。ありがとうございます』と返信が来る。
杏里はスマホを胸の上に置き、天井を見上げた。
勢いだったのかもしれない。けれど、不思議と後悔はなかった。
重たい決意でも、劇的な覚悟でもない。ただ、「おばあちゃんならこうしたはず」という素直な思いに従っただけ。それでいい気がした。
しばらくして、結衣からいつものようにメッセージが届いた。
『生きてる? 今日残業で死ぬかと思ったー!』
『大げさだよ。お疲れさま』
杏里は少し笑って返した。
たぶん結衣は、あたしが鍋島さんと直接連絡を取ったことなんて知らない。
それでいい。まだ何でもないことだから、わざわざ言う必要もない。
けれど、自分の中で何かが決定的に変わったのは分かっていた。
鍋島さんはもう、「結衣の好きな芸人さん」じゃない。ライブブースで遠くから見るだけの人でもない。
杏里自身が、自分の意思で、その孤独に手を伸ばした相手だ。
居間の明かりの下で、杏里は静かに部屋を見回した。
古くて、静かで、おばあちゃんが守ってきたこの家。
けれど、たぶんもうすぐ、ここには新しい生活音が混じり始める。
「……本当に、来るんだ」
小さく呟くと、少しだけ胸がざわついた。
けれどその落ち着かなさの中には、ほんの少しだけ、あたたかな予感が混じっている気がした。




