第2話:舞台の上の別人、舞台の裏の素顔(2)
ステージ裏に近い通路は、スタッフや関係者が行き交い、急に現実的で忙しない空気になっていた。
結衣は慣れた様子で邪魔にならない場所に陣取る。
しばらくして、先に現れたのは林田だった。
ステージと同じ明るいスーツのまま、こちらを見るなり「あ」と声を上げる。
「結衣ちゃんは分かる。……で、こっちが、鍋島がこの前お世話になった人?」
杏里は少し緊張して、小さく会釈した。
「藍原です」
「ああ、やっぱり。話だけ聞いてたよ。鍋島がめちゃくちゃ助かったって言ってた」
「いえ、別に大したことはしてないです」
杏里が返すと、林田は少し面白そうに笑った。
「へえ。ちゃんと来てくれたんだ。鍋島の話だと、もうちょい警戒するタイプっぽかったから」
「……何ですか、それ」
「いや、あの日かなり困らせたみたいだったし。家に上げてもらったのも、わりと奇跡みたいに話してたからさ」
林田は悪びれず肩をすくめた。
「でも鍋島、ちょっと感動してたよ。親切な人に助けてもらったって」
そこまで言われると、返しに困る。林田はその反応を見てまた笑い、通路脇のガラスに映る自分を見て、前髪をサッと整えた。
「やっぱ今日、スーツ映えるなあ」
「自分で言うんだね」
結衣が笑う。
「言うよ。しかも今日、照明ちょっと俺寄りだった気がするし」
何を言ってるんだろう、この人。
杏里が呆れていると、後ろから落ち着いた声がした。
「何やってるんだよ、林田」
振り返ると、鍋島がいた。
まだ衣装のままで、でも舞台の上よりずっと肩の力が抜けた顔。額に少しかかった髪が、激しいステージの熱量を感じさせた。
「鍋島! この前の話してたんだよ。藍原さん、ちゃんと来てくれたぞ」
「来てくれたんですね」
鍋島の表情が、ふっと柔らかくなる。
結衣がすぐに一歩前へ出た。
「観ました! 今日、めちゃくちゃ面白かったです!」
「ありがとうございます」
「最後のあの返し、私すごい好きでした」
「良かった。ちゃんと笑ってもらえて」
結衣との会話はスムーズに進む。杏里は少し後ろでそのやり取りを見ていた。すると、鍋島が自然に視線を向けてきた。
「杏里さんも。来てくれて、ありがとうございます」
真正面から言われると、やっぱり落ち着かない。
「……結衣がうるさかったから」
「でも、来てくれた」
「まあ、そうだけど」
「どうでした? 正直な感想」
杏里は少しだけ視線を逸らした。
「……思ったより、ずっと面白かったです」
「『思ったより』か」
「あ、すみません」
「いや、いいです。すごく正直で」
鍋島が笑う。その笑い方は、居間にいた時と同じ静かなもので、杏里はまた調子を狂わされた。
「でも、良かったです。来てもらえて。家にお邪魔したままになってたから」
あの日のことを、ちゃんと覚えていてくれた。
当たり前のことかもしれないけれど、杏里はそのことが少しだけ嬉しかった。
林田が横から割り込んでくる。
「鍋島、あの日ほんと焦ってたからね。顔には出してないつもりだったみたいだけど、普通に詰んでたよな」
「……出してないだろ」
「いや、絶対出てた。あのまま俺と連絡つかなかったらどうするつもりだったの?」
「駅に戻るか、ネカフェ探すか……」
「ほら、詰んでる」
林田の呆れたような口調には、長年の信頼感が滲んでいた。
「でも、本当に助かったのは事実だよ。帰る場所がないのって、地味にきついからさ」
鍋島は小さく息をつき、否定しなかった。
結衣が少し眉を寄せる。
「今も、まだそんな感じなんですか?」
「まあ、ちょっとバタバタしてて」
「『ちょっと』じゃないだろ」
林田がすぐに口を挟む。
「今、俺のシェアハウスに転がり込んでるけど、住人増えてきて普通に狭いし。そもそもコンビでずっと同じ場所にいると、家まで仕事場みたいになるじゃん」
鍋島が「おい」と小さく制するが、林田は気にしない。
「芸人って、ただでさえ一緒にいる時間長いんだよ。だから、住むとこくらい別の方がプライベート守りやすいし」
そこまで言ってから、杏里たちの方を見る。
「ってことで、鍋島は今、新しい部屋探してる最中なわけ」
言い切られてしまって、鍋島は苦笑した。
「……だいたい合ってます」
杏里はそこでようやく、話の輪郭が少しはっきりした気がした。
ただ住む場所がなくて困っている、というだけではない。
林田のところにずっと世話になるのも現実的じゃなくて、コンビとしても距離を分けた方がいい。だから急いで探しているのだ。
「ホテルとかじゃないんですか?」
気づけば、自分から口を開いていた。言ったあとで、少し驚く。
鍋島も一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに穏やかに返した。
「毎日はさすがにきついので。今は林田のところに泊めてもらいながら、空いてる日だけ荷物を取りに戻ったり、という感じです」
「それ、かなり大変じゃないですか」
「まあ、少しだけ」
「少しで済ませるなって」
林田が肩をすくめる。
「鍋島って、抱えてる時ほど『まあまあ』って顔するんだよ」
鍋島は「……あながち間違ってないけど」と苦笑した。
林田は満足げに頷き、またガラスに映る自分の輪郭をチェックし始めた。
「あと今日、やっぱ俺の輪郭きれいだわ」
「話を戻して」
「いや大事だよ。疲れてても顔が死んでないのは武器だから。ね、結衣ちゃん?」
「あはは、華がありますもんね!」
「だろ?」
鍋島が呆れたように笑う。そのやり取りが妙におかしくて、空気が少しだけ和らいだ。
舞台の上の二人は別人に見えたけれど、こうして話していると、ちゃんと地続きなのだと分かった。
軽快で自信満々な林田と、それを受け流しながらもしっかり拾う鍋島。思っていた以上に、いいコンビに見えた。
しばらくして、四人はその場で別れることになった。
「今日はありがとうございました。本当に、来てもらえて良かったです」
「こちらこそ!」
結衣が明るく返し、杏里も小さく頭を下げる。
「……楽しかったです」
鍋島が少しだけ目を細めた。
「それなら良かった」
最後、林田が「次来る時はもうちょっと前で見なよ。俺の仕上がりが分かりやすいから」と当然のように言い、結衣が吹き出した。
二人と別れて駐車場へ向かう道すがら、結衣はいつものように感想を喋り始めた。
「林田さん、やっぱり華があるね。でも、あの人本当に自分のこと大好きだね」
「だいぶ好きだよね。でも、嫌味じゃないのが不思議」
「本気だからじゃない? なべさんも良かったでしょ」
「……うん」
「杏里、さっきから『うん』しか言ってない。まだ何か考えてる?」
「ちょっとね」
夕方の空気は冷えていたけれど、ライブの余韻のせいか、歩いているとちょうどいい。
杏里は車の鍵を指先で回しながら、さっきの会話を頭の中でなぞっていた。
舞台の上で人を笑わせる姿、通路で静かにお礼を言う姿。そして「何とかします」と少しだけ無理をして笑った姿。
「結衣」
「ん?」
「鍋島さん、本当に大丈夫なのかな。住むところ」
「どうだろうね。何とかするタイプではありそうだけど」
「何とかしてない感じもしたんだよね」
「……分かる」
珍しく、結衣の返事が静かだった。
少しの沈黙のあと、結衣がふっと笑う。
「でもさ、杏里。ちゃんと気にしてるじゃん」
「普通でしょ、それくらい」
「はいはい」
その言い方が少しだけ優しくて、杏里は言葉を失った。
気にしている。確かにそうかもしれない。
ただ家に来た人だから、というだけではなくなっている。少なくとも、あの日よりはずっと。
駐車場に着き、車に乗り込む。エンジンをかける前に、杏里はフロントガラスの向こうの薄暗い空を見上げた。
たった一度、家に招いただけ。ライブを見に来ただけ。
それだけなのに、相手の輪郭が少しずつはっきりしていく。そのことが、どうしてか落ち着かない。
「ねえ、杏里」
「なに」
「次、どうなると思う?」
結衣がいたずらっぽく笑う。
杏里はハンドルに手を置いたまま、短く息をついた。
「知らないよ」
「そういう時って、だいたい何かあるんだよね」
「結衣の勘なんて当たらないでしょ」
「いや、わりと当たるよ」
自信満々に言われて、杏里は呆れながら車を出した。
夜の道へ滑り出した車内で、さっきの会話がまだ消えない。
『何とかしますよ』
そう言った鍋島の声だけが、なぜか妙に耳に残っていた。




