第2話:舞台の上の別人、舞台の裏の素顔(1)
ライブ当日の昼すぎ。結衣からのメッセージは、朝からずっと落ち着きがなかった。
『今日はちゃんと来るよね?』
『逃げちゃだめだよ』
『終わったら絶対感想聞くから!』
立て続けに届く通知を見て、杏里はソファの上で小さく息をついた。
たった一回、困っていた人を家に上げただけ。それなのに、どうしてこんなことになっているんだろう。
テーブルの上には、「三日月ロケット」単独ライブのチケットが置いてある。あの日から何度か見返しているけれど、そのたびに少しだけ落ち着かない気持ちになった。
『無理にとは言わないです。でも、来てもらえたら嬉しいです』
鍋島の、あの妙に自然な声が耳に残っている。
杏里はチケットを手に取って、軽く振った。
「……考えるだけって言ったのに」
言い訳みたいに呟いても、部屋には自分の声が響くだけだ。
けれど結局、行かない理由も特になかった。結衣は最初から行く気満々だし、あの日あんなに助けてもらったのに「なかったこと」にするのも、なんだか感じが悪い気がした。
杏里は立ち上がり、クローゼットの前にしゃがみ込む。
何を着ていけばいいのか分からない。ただライブを見に行くだけなのに、そう思うと余計に決まらなかった。
最終的に、淡い色のカットソーに細身のデニム、薄手のジャケットを羽織るいつものカジュアルな格好に落ち着いた。鏡の前で後ろのお団子を整えながら、自分でも少し笑ってしまう。
別に気合を入れているわけじゃない。ただ、あの人の「舞台の顔」を見に行くのが、少しだけ気恥ずかしいだけだ。
スマホが震える。
『今どこ?』
『もう着くよ』
『入口の横にいるね』
杏里は短く『今出る』と返して、家を出た。
週末の商業施設は、いつもより人が多かった。
ライブブースの前には開演前から人だかりができている。買い物のついでに立ち止まった人より、明らかに彼らを目当てに来ている顔ぶれが多い。
結衣は入口脇の壁にもたれて待っていた。茶髪のロングヘアに赤っぽいスタジャン、足元はスニーカー。今日も棒付きキャンディーをくわえて、機嫌よく手を振ってくる。
「ちゃんと来たんだ」
「来るって言ったでしょ」
「『考える』って言ってたよ」
「考えた結果、来たんだよ」
「へえー」
ニヤニヤした顔を向けられて、杏里は眉を寄せた。
「その顔やめて」
「だって、杏里が自分からこういうとこ来るの珍しいし」
「結衣がうるさいから来ただけだよ」
「はいはい」
絶対信じていない返事だった。
ライブブースの中に入ると、客席とステージの距離が驚くほど近い。
「単独って、いつものライブより空気が違うね」
「違うよ。今日は三日月ロケット目当ての人ばっかりだから」
「……ちょっと緊張する」
「なんで杏里が緊張するのさ」
「人が多いからだよ」
結衣が笑いながら肩をすくめる。
客席が埋まり、ざわめきが一つにまとまり始めた頃、照明が落ちて空気が静まった。
「来るよ」
結衣の小声と同時に、舞台袖から林田が現れた。
明るい色のスーツがパッと目を引く。ポスターで見るより実物の方がずっと華やかで、出てきた瞬間から空気を掴むのがうまい。
その後ろから、鍋島が出てくる。
黒髪、高い身長、クールな顔立ち。きっちりアイロンのかかったシャツとスーツがよく似合っていて、家に来た時の穏やかな印象より、ずっと遠い存在に見えた。
そして、彼らがセンターマイクの前に立った瞬間、空気が変わった。
杏里はそれに、少しだけ圧倒された。
あの日、居間でお茶を飲んでいた鍋島は、落ち着いていて、礼儀正しくて、どちらかといえば静かな人だった。芸人なのだから違う顔を持っていて当然なのに、実際に目の当たりにすると、想像以上に「別人」だった。
林田が客席へ勢いよく言葉を投げ、鍋島がワンテンポ遅れてぼそっと返す。
その絶妙なズレに笑いが起きる。
林田が広げた話を、鍋島が真顔のまま突拍子もない方向へ持っていく。林田の鋭いツッコミが入るたび、客席がきれいに沸いた。
(……ちゃんと、面白いんだ)
当たり前のことなのに、杏里は心の中でそう再確認していた。
林田のツッコミは軽快で目立つ。けれど、ただ騒いでいるわけじゃなく、鍋島の間や視線をしっかり見て言葉を差し込んでいるのが分かった。
鍋島は鍋島で、涼しい顔をしておかしなことを言う。その温度差がたまらなくおかしい。
気づけば、杏里は最初より少し前のめりになっていた。横で結衣がこらえきれず笑いながら、肘でつついてくる。
「ね?」
「……すごいね」
「でしょ!」
その得意げな声に、杏里は小さく頷くしかなかった。
ネタが終わって拍手が起きた時、杏里は胸の奥が少し熱くなっていることに気づいた。
ただの「知っている人」じゃない。ちゃんと、大勢の人の前に立って笑わせているプロなんだと、今さらながら実感した。
ライブが終わったあとも、結衣の興奮は冷めなかった。
「今日かなり良かった! 最初のつかみから強かったし、最後の返しも最高だったし」
「早口だよ」
「当然でしょ!」
館内のベンチに腰掛けて、結衣は熱弁を振るう。杏里は紙コップのコーヒーを飲みながら、それを聞いていた。
「杏里、笑ってたじゃん」
「……まあね」
「『まあね』じゃないって。楽しんでたでしょ」
「思ったよりは、ね」
またニヤニヤされるけれど、否定はしなかった。
楽しかったのは本当だ。お笑いに詳しくない自分でも、あの空間が面白いものだと分かったし、何より鍋島の見え方が少し変わった。
ただの顔見知りじゃなくて、そこで戦っている人なんだと。
「ねえ、ちょっと挨拶行かない?」
「は?」
「せっかく来たんだし。チケットもらったんだよ?」
「いや、だからって……」
「お礼くらい直接言えるでしょ。ほら、行くよ!」
有無を言わさぬ勢いで腕を引かれ、杏里はしぶしぶ立ち上がった。




