第1話:週末の喧騒と、予定外のゲスト(2)
杏里の家は、商業施設から車で十五分ほどの場所にある。
代々受け継がれてきた古い一戸建てだが、祖母が生きていた頃から丹念に手入れされてきた家だった。年季の入った塀や門扉のあちこちに、季節の名残を感じさせる草花が顔を出している。
夜になると、玄関灯のあたたかい色が暗がりににじみ、不思議な安心感を与えてくれた。
車を降りた鍋島が、小さく「いい家ですね」と呟いた。
その言葉に、杏里はわずかに目を瞬く。世辞にしてはどこか実感がこもっていて、雑な響きがしなかったからだ。
「古いですけど」
「古いのと、いいのは別じゃないですか」
さらりと返され、杏里は言葉を飲み込んだ。
結衣はそんな空気を気にする様子もなく、慣れた足取りで先に玄関へ向かっている。
「ただいまー!」
「自分の家みたいに言わないでよ」
「分かってるって」
鍵を開けて中へ入ると、いつもの匂いがした。
古い木の香り、洗い立ての布、そして、言葉にできないこの家特有の凪のような空気。
鍋島は玄関で靴をぴしりと揃えてから上がった。そういう細かい所作に、その人の地が出る気がする。
「お邪魔します」
「どうぞ……って言うのも、なんだか変な感じですけど」
「いや、そう言ってもらえると助かります」
杏里が居間へ案内しようとした、その時。
鍋島が少し遠慮がちにスマホを持ち上げた。
「すみません、ひとつだけいいですか? 充電がもう限界で……もしあれば、少しだけお借りしてもいいでしょうか」
見れば、画面の隅の数字は今にも消え入りそうなほど赤くなっている。
「あ、あります。たしか……」
「杏里、前にリビングで使ってたやつ、あの棚じゃない?」
「なんであんたが把握してるの」
「通ってる回数が違うからね」
勝手知ったる親友を横目に、杏里は居間の引き出しを開けた。コード類が絡まった箱の中から、使えそうな充電器を見つけ出す。
「これ、合いますか?」
「あ、大丈夫そうです」
鍋島は受け取る時も、ちゃんと両手だった。
「ありがとうございます。助かります、本当に」
その感謝がまっすぐ届いて、杏里の肩からわずかに力が抜ける。コンセントの位置を教えると、彼はコードを引っ張りすぎないよう注意しながら、壁際に静かにしゃがみ込んだ。
「……ついた」
画面に充電のマークが灯る。鍋島が安堵の息を漏らした。
「よかったですね」
「本当に。これでようやく林田と連絡が取れます」
「最初からそうしてくれればよかったのにー」
「してたんですって。ただ、送る前に電源が落ちそうで焦ってたから」
結衣が笑い、鍋島も困ったように笑い返す。
杏里はそのやり取りを眺めながら、見知らぬ男を家に入れたわりには、空気が少しも荒れていないことに気づく。
もっと居心地が悪くなると思っていた。
けれど、少なくともこの人は、他人の領域を土足で荒らすようなタイプではないらしかった。
「お茶でいいですか?」
「何でもありがたいです」
「じゃあ私、お菓子出す係ね」
「結衣は座ってて」
「えー」
親友の抗議を無視して台所へ向かう。
急須にお湯を注ぎ、湯呑みを三つ。戸棚からは、結衣が来る時用にストックしていた煎餅と、小さなクッキー缶を取り出した。
居間に戻ると、結衣はわが家のようにくつろいでおり、鍋島は充電中のスマホを慎重に操作していた。
「……まだ、繋がりませんか?」
「うーん、既読がつかないですね。たぶん移動中かな。あいつ、妙に返信が遅い時があるんですよ」
お茶を差し出すと、彼は「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げた。
結衣は待ってましたとばかりに煎餅の袋を破る。
「いただきまーす!」
「早いよ」
「だってお腹空いちゃったんだもん」
その隣で、鍋島も少し遠慮がちにクッキーへ手を伸ばした。一口食べると「おいしい」と素直に零したので、杏里はまた拍子抜けしてしまう。
「普通の、市販のやつですけど」
「市販のお菓子って、たまにびっくりするくらい当たりのやつ、ありますよね」
「分かります! それ、止まらなくなるやつですよね」
会話のテンポが、思いのほか自然だった。
テレビの中の芸人なら、もっと声を張り上げ、人の家でもグイグイ来るものかと思っていた。けれど目の前の男は、心地よい距離感を保ったまま、静かにそこにいた。
「杏里、なべさんって今、結構人気出てきてるんだよ?」
「そうなんだ」
「『そうなんだ』で終わらせる? もっと食いつきなよ」
「テレビ、あんまり見ないから」
「もったいないなあ」
「いやいや、全然。知らない方が普通ですよ」
鍋島は苦笑いしてお茶を啜った。
その指先が、ふときれいだなと杏里は思う。節くれだってはいるが、清潔感のある手。舞台衣装もきっちり着こなす人なのだろう、という印象がふわりと重なる。
「……今日、結衣がすごく笑ってました」
「ありがとう」
「最後列に近い席でしたけど、反応で分かるんですか?」
「分かりますよ。いつも来てくれる人の顔は、だいたい覚えてますから」
「え、やばい。認知されてる……!」
「なんであんたが誇らしげなんだ」
結衣が満面の笑みを浮かべ、また煎餅をかじる。
鍋島が向き直る。
「杏里さんは、本当にお笑いには興味ないんですか?」
「そうですね。結衣の話を聞くので、名前を知ってるくらいで」
「それでも、十分ありがたいです」
そう言って微笑む顔は、やっぱり“普通”だった。静かで、穏やか。
その時、鍋島のスマホが震えた。
「あ、来た」
表情が分かりやすく緩む。すぐに通話ボタンを押し、短いやり取りを始めた。
「もしもし、悪い。やっと繋がった……うん、鍵。なくした。今は、大丈夫。助けてもらってる。……だから怒るなって」
『助けてもらってる』という言葉が、なぜか耳に残った。
当たり前の事実なのに、彼が言うと特別なことのように聞こえてしまう。
数分後、通話を終えた鍋島がスマホを伏せた。
「迎えに来てくれるそうです。もう大丈夫です」
「よかったー!」
「本当に、助かりました」
改めて向き直られると、杏里は居心地が悪くて視線を逸らした。
「……連絡がついたなら、よかったです」
その時、鍋島がジャケットの内ポケットから何かを取り出した。大切に扱われていたらしい、二枚のチケット。
「これ、お礼って言うと軽いですけど。もしよかったら、来てください」
差し出されたそれを見た瞬間、結衣の目がひっくり返るほど輝いた。
「えっ、いいんですか!? 来週の単独ライブ!?」
「もちろん」
「行く! 絶対行く!」
「ちょっと、返事が早すぎるってば」
杏里が呆れると、鍋島がいたずらっぽく笑った。
「杏里さんも、もし都合がよければ。無理にとは言いませんが、来てもらえたら嬉しいです」
その誘い方がしなやかで、断り文句を封じられた気分になる。
杏里は、親友のキラキラした視線と、彼の穏やかな眼差しを交互に見て、重たい溜息をついた。
「……考えます」
「それ、だいぶ前向きなやつだ」
「結衣は黙ってて」
結局、チケットは受け取ってしまった。結衣が当然のように自分の一枚を確保したのは言うまでもない。
やがて、家の前に車の音が響いた。
「来たみたいですね。じゃあ、俺はこれで」
立ち上がった鍋島は、最後まで非の打ち所がなかった。湯呑みを置く位置から、座布団を整える手つきまで。
玄関まで見送りに出ると、夜の冷気が二人を包み込む。
「今日は本当に、ありがとうございました」
「……いえ」
「今度、ちゃんとライブで返します」
「返すものがライブなんですか?」
「芸人ですから」
少しだけ茶目っ気を見せて、彼は笑った。その瞬間、彼の背後に初めて、キラキラとした“舞台の人”の気配が混じる。
門を出る間際、彼は一度だけ振り返った。
「落ち着く家ですね。なんか……いいなって、思いました」
それだけ言い残して、彼は夜の闇へと消えていった。
門の向こうに停まった車から、相方の林田らしき人影が軽く会釈するのが見えた。
玄関を閉めると、家の中は一瞬で元の静寂に包まれた。
なのに、つい先ほどまで知らない人がいたせいで、空気がわずかに書き換えられているような気がする。
「杏里ー」
「なに」
「来週、絶対行こうね。絶対だよ」
「……まだ決めてないってば」
「嘘。行く顔してるもん」
結衣の弾んだ声が居間から飛んでくる。
杏里は靴を脱ぎながら、また小さく息を吐いた。この落ち着かない感じは、きっと親友が騒がしいせいだけではない。
テーブルの上に置かれた、二枚のチケット。
ただ、困っている人を少しだけ助けた。それだけのことだったはずなのに。
いつもの週末と同じように終わるはずだった夜は、少しだけ歪な、けれど温かい余韻を家の中に残してしまった。
杏里は居間に戻り、チケットの縁をそっと親指でなぞる。
『三日月ロケット 単独ライブ』
「……考えるだけだからね」
「はいはい、楽しみだねー!」
返事は全く信用できなかったけれど、杏里自身、もう完全に無関心でいることは難しいだろうと、心のどこかで悟っていた。




