表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三日月ロケット、居候中  作者: あしゅ太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/14

第1話:週末の喧騒と、予定外のゲスト(2)

 杏里の家は、商業施設から車で十五分ほどの場所にある。


 代々受け継がれてきた古い一戸建てだが、祖母が生きていた頃から丹念に手入れされてきた家だった。年季の入った塀や門扉のあちこちに、季節の名残を感じさせる草花が顔を出している。


 夜になると、玄関灯のあたたかい色が暗がりににじみ、不思議な安心感を与えてくれた。


 車を降りた鍋島が、小さく「いい家ですね」と呟いた。


 その言葉に、杏里はわずかに目を瞬く。世辞にしてはどこか実感がこもっていて、雑な響きがしなかったからだ。


「古いですけど」


「古いのと、いいのは別じゃないですか」


 さらりと返され、杏里は言葉を飲み込んだ。


 結衣はそんな空気を気にする様子もなく、慣れた足取りで先に玄関へ向かっている。


「ただいまー!」


「自分の家みたいに言わないでよ」


「分かってるって」


 鍵を開けて中へ入ると、いつもの匂いがした。


 古い木の香り、洗い立ての布、そして、言葉にできないこの家特有の凪のような空気。


 鍋島は玄関で靴をぴしりと揃えてから上がった。そういう細かい所作に、その人の地が出る気がする。


「お邪魔します」


「どうぞ……って言うのも、なんだか変な感じですけど」


「いや、そう言ってもらえると助かります」


 杏里が居間へ案内しようとした、その時。


 鍋島が少し遠慮がちにスマホを持ち上げた。


「すみません、ひとつだけいいですか? 充電がもう限界で……もしあれば、少しだけお借りしてもいいでしょうか」


 見れば、画面の隅の数字は今にも消え入りそうなほど赤くなっている。


「あ、あります。たしか……」


「杏里、前にリビングで使ってたやつ、あの棚じゃない?」


「なんであんたが把握してるの」


「通ってる回数が違うからね」


 勝手知ったる親友を横目に、杏里は居間の引き出しを開けた。コード類が絡まった箱の中から、使えそうな充電器を見つけ出す。


「これ、合いますか?」


「あ、大丈夫そうです」


 鍋島は受け取る時も、ちゃんと両手だった。


「ありがとうございます。助かります、本当に」


 その感謝がまっすぐ届いて、杏里の肩からわずかに力が抜ける。コンセントの位置を教えると、彼はコードを引っ張りすぎないよう注意しながら、壁際に静かにしゃがみ込んだ。


「……ついた」


 画面に充電のマークが灯る。鍋島が安堵の息を漏らした。


「よかったですね」


「本当に。これでようやく林田(はやしだ)と連絡が取れます」


「最初からそうしてくれればよかったのにー」


「してたんですって。ただ、送る前に電源が落ちそうで焦ってたから」


 結衣が笑い、鍋島も困ったように笑い返す。


 杏里はそのやり取りを眺めながら、見知らぬ男を家に入れたわりには、空気が少しも荒れていないことに気づく。


 もっと居心地が悪くなると思っていた。


 けれど、少なくともこの人は、他人の領域を土足で荒らすようなタイプではないらしかった。


「お茶でいいですか?」


「何でもありがたいです」


「じゃあ私、お菓子出す係ね」


「結衣は座ってて」


「えー」


 親友の抗議を無視して台所へ向かう。


 急須にお湯を注ぎ、湯呑みを三つ。戸棚からは、結衣が来る時用にストックしていた煎餅と、小さなクッキー缶を取り出した。


 居間に戻ると、結衣はわが家のようにくつろいでおり、鍋島は充電中のスマホを慎重に操作していた。


「……まだ、繋がりませんか?」


「うーん、既読がつかないですね。たぶん移動中かな。あいつ、妙に返信が遅い時があるんですよ」


 お茶を差し出すと、彼は「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げた。


 結衣は待ってましたとばかりに煎餅の袋を破る。


「いただきまーす!」


「早いよ」


「だってお腹空いちゃったんだもん」


 その隣で、鍋島も少し遠慮がちにクッキーへ手を伸ばした。一口食べると「おいしい」と素直に零したので、杏里はまた拍子抜けしてしまう。


「普通の、市販のやつですけど」


「市販のお菓子って、たまにびっくりするくらい当たりのやつ、ありますよね」


「分かります! それ、止まらなくなるやつですよね」


 会話のテンポが、思いのほか自然だった。


 テレビの中の芸人なら、もっと声を張り上げ、人の家でもグイグイ来るものかと思っていた。けれど目の前の男は、心地よい距離感を保ったまま、静かにそこにいた。


「杏里、なべさんって今、結構人気出てきてるんだよ?」


「そうなんだ」


「『そうなんだ』で終わらせる? もっと食いつきなよ」


「テレビ、あんまり見ないから」


「もったいないなあ」


「いやいや、全然。知らない方が普通ですよ」


 鍋島は苦笑いしてお茶を啜った。


 その指先が、ふときれいだなと杏里は思う。節くれだってはいるが、清潔感のある手。舞台衣装もきっちり着こなす人なのだろう、という印象がふわりと重なる。


「……今日、結衣がすごく笑ってました」


「ありがとう」


「最後列に近い席でしたけど、反応で分かるんですか?」


「分かりますよ。いつも来てくれる人の顔は、だいたい覚えてますから」


「え、やばい。認知されてる……!」


「なんであんたが誇らしげなんだ」


 結衣が満面の笑みを浮かべ、また煎餅をかじる。


 鍋島が向き直る。


「杏里さんは、本当にお笑いには興味ないんですか?」


「そうですね。結衣の話を聞くので、名前を知ってるくらいで」


「それでも、十分ありがたいです」


 そう言って微笑む顔は、やっぱり“普通”だった。静かで、穏やか。


 その時、鍋島のスマホが震えた。


「あ、来た」


 表情が分かりやすく緩む。すぐに通話ボタンを押し、短いやり取りを始めた。


「もしもし、悪い。やっと繋がった……うん、鍵。なくした。今は、大丈夫。助けてもらってる。……だから怒るなって」


『助けてもらってる』という言葉が、なぜか耳に残った。


 当たり前の事実なのに、彼が言うと特別なことのように聞こえてしまう。


 数分後、通話を終えた鍋島がスマホを伏せた。


「迎えに来てくれるそうです。もう大丈夫です」


「よかったー!」


「本当に、助かりました」


 改めて向き直られると、杏里は居心地が悪くて視線を逸らした。


「……連絡がついたなら、よかったです」


 その時、鍋島がジャケットの内ポケットから何かを取り出した。大切に扱われていたらしい、二枚のチケット。


「これ、お礼って言うと軽いですけど。もしよかったら、来てください」


 差し出されたそれを見た瞬間、結衣の目がひっくり返るほど輝いた。


「えっ、いいんですか!? 来週の単独ライブ!?」


「もちろん」


「行く! 絶対行く!」


「ちょっと、返事が早すぎるってば」


 杏里が呆れると、鍋島がいたずらっぽく笑った。


「杏里さんも、もし都合がよければ。無理にとは言いませんが、来てもらえたら嬉しいです」


 その誘い方がしなやかで、断り文句を封じられた気分になる。


 杏里は、親友のキラキラした視線と、彼の穏やかな眼差しを交互に見て、重たい溜息をついた。


「……考えます」


「それ、だいぶ前向きなやつだ」


「結衣は黙ってて」


 結局、チケットは受け取ってしまった。結衣が当然のように自分の一枚を確保したのは言うまでもない。


 やがて、家の前に車の音が響いた。


「来たみたいですね。じゃあ、俺はこれで」


 立ち上がった鍋島は、最後まで非の打ち所がなかった。湯呑みを置く位置から、座布団を整える手つきまで。


 玄関まで見送りに出ると、夜の冷気が二人を包み込む。


「今日は本当に、ありがとうございました」


「……いえ」


「今度、ちゃんとライブで返します」


「返すものがライブなんですか?」


「芸人ですから」


 少しだけ茶目っ気を見せて、彼は笑った。その瞬間、彼の背後に初めて、キラキラとした“舞台の人”の気配が混じる。


 門を出る間際、彼は一度だけ振り返った。


「落ち着く家ですね。なんか……いいなって、思いました」


 それだけ言い残して、彼は夜の闇へと消えていった。


 門の向こうに停まった車から、相方の林田らしき人影が軽く会釈するのが見えた。


 玄関を閉めると、家の中は一瞬で元の静寂に包まれた。


 なのに、つい先ほどまで知らない人がいたせいで、空気がわずかに書き換えられているような気がする。


「杏里ー」


「なに」


「来週、絶対行こうね。絶対だよ」


「……まだ決めてないってば」


「嘘。行く顔してるもん」


 結衣の弾んだ声が居間から飛んでくる。


 杏里は靴を脱ぎながら、また小さく息を吐いた。この落ち着かない感じは、きっと親友が騒がしいせいだけではない。


 テーブルの上に置かれた、二枚のチケット。


 ただ、困っている人を少しだけ助けた。それだけのことだったはずなのに。


 いつもの週末と同じように終わるはずだった夜は、少しだけ歪な、けれど温かい余韻を家の中に残してしまった。


 杏里は居間に戻り、チケットの縁をそっと親指でなぞる。


『三日月ロケット 単独ライブ』


「……考えるだけだからね」


「はいはい、楽しみだねー!」


 返事は全く信用できなかったけれど、杏里自身、もう完全に無関心でいることは難しいだろうと、心のどこかで悟っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ