第27話:まだここにいてほしい(2)
気づけば、窓の外は薄暗くなり始めていた。
テレビの音量を下げていたせいか、玄関の開く音に気づくのが遅れた。廊下を歩く、少し疲れを含んだ足音でようやく顔を上げる。
「……ただいま」
聞き慣れた声に、杏里は反射的に応えた。
「おかえりなさい」
鍋島は片手にスーパーの袋を提げて立っていた。コートを脱いだあとの顔は、一目で分かるほど疲弊している。さすがに初詣からの生放送は、体力の限界だったのだろう。
「お疲れさまです。生放送、見てましたよ」
「あ……ありがとうございます。お恥ずかしい」
鍋島は小さく笑い、そのままふらりと台所へ向かった。買ってきた食材を冷蔵庫に入れようとするが、その動きはいつもよりずっと緩慢だ。
それを見ていた杏里は、たまらずこたつから這い出した。
「鍋島さん」
「はい」
「無理に料理しなくていいです。休んでてください、今日はあたしがやりますから」
鍋島が驚いたように振り返る。
「でも、これは俺の担当なので……」
「担当なんて言ってる場合じゃないですよ。一睡もしてないんでしょ?」
「まあ、ちょっと眠い……くらいです」
「ちょっとの顔じゃないです。いいから、座ってください」
強引に椅子を勧めると、鍋島は困ったように笑い、それから力なく腰を下ろした。
静かになった台所で、杏里は冷蔵庫の扉を閉める。今だ、と思った。ここで言わなければ、また言葉を飲み込んでしまう。
「……その、これからのことなんですけど」
杏里の声に、鍋島の視線がまっすぐこちらを向いた。
「引っ越しのことです。最初、一ヶ月って約束でしたよね」
鍋島は数秒の沈黙のあと、小さく頷いた。
「はい。そうですね。……一応、部屋は探し始めています。年明けには、と思っていたので」
淡々と告げられた言葉に、胸の奥がチリッと痛む。
杏里はこたつ布団の端を指先で強くつまみ、必死に次の言葉を絞り出した。
「……無理に急がなくても、いいんじゃないですか」
鍋島の目が、わずかに細められる。
「急がなくても、って……」
「その、いい部屋なんてすぐ見つかるわけないですし。それに……今はハヤブサもいますから」
ハヤブサ、という名前を出すと、不思議と勇気が湧いてきた。
「あの子、鍋島さんに懐いてるし、急にいなくなったらきっと困ると思うんです。だから……その、別に、見つかるまでなら……」
最後の方は、消え入りそうな声になった。
「好きだから」なんて言葉は一つも入っていない。けれど、それは紛れもない杏里の本音だった。
鍋島は視線を落とし、テーブルの上で自分の手をじっと見つめていた。やがて、深く息を吐き出す。
「……俺が甘えるのも、違うかなと思っていました。杏里さんに迷惑をかけっぱなしなのも」
「迷惑なんて……」
「でも」
鍋島は顔を上げた。その目元には、これまでに見たことがないほど、柔らかく熱い温度が宿っていた。
「……うれしいです。ありがとうございます」
そのまっすぐな言葉に、杏里は急に心臓が騒ぎ出すのを感じた。
「ハヤブサが、ですよ」
「はい。ハヤブサのためにも、そうさせていただきます」
分かっているくせに。
鍋島も、ハヤブサだけじゃないことを分かっているはずなのに。それをわざわざ指摘しない彼の優しさが、今はたまらなく心地よかった。
「じゃあ、今日は本当に休みを担当してください。ハヤブサもそう言ってます」
杏里が背中を向けて鍋に水を入れると、足元でハヤブサが当然のように鍋島の膝へと飛び乗った。
「そうですね。じゃあ今日は、ちゃんとお言葉に甘えて休みます」
包丁がまな板を叩く、小気味よい音が響き始める。
一ヶ月で終わるはずだった同居生活。それが今、少しだけ形を変えて延長された。
これが正解なのかは分からない。けれど、鍋島がまだここにいる。
その事実だけで、杏里の胸のざわつきは穏やかに収まっていく。
夕闇の迫る部屋で、新しい「日常」がまた静かに動き出していた。




