第25話:あたたかいクリスマスと年明けの約束(1)
杏里にとって、クリスマスはずっとあまり縁のない日だった。
街が浮かれていても、イルミネーションが華やかでも、結局はただの年末の一日でしかない。毎年この時期は店も忙しく、杏里自身も当然のようにバイトのシフトを詰め込んでいた。
仕事が終わったあと、施設内のスーパーで半額になったチキンとケーキを買って帰る。それを一人で食べて、「ああ、今年も終わるな」とぼんやり思う。
そんな過ごし方が、いつの間にか当たり前になっていた。
だから今年も、特に迷わずシフトを入れていた。けれど、今年は少しだけ、何かが違っている。
(――帰ったら、ご飯ができてるんだよね)
それだけのことが、自分でも驚くほどうれしかった。
仕事終わり、杏里はスーパーのスイーツコーナーに立ち寄った。前のように値引きシールを待つのではなく、ちゃんと自分で選んで、定価のケーキを手に取る。
レジに並びながら、スマホを取り出した。
『ケーキだけ買って帰りますね』
送ると、返信はすぐに届いた。
『ありがとうございます。こっちももうすぐできそうです。気をつけて帰ってきてくださいね』
その短い文面を見ただけで、杏里の口元が自然と緩んだ。いちいち丁寧な返しが、いかにも鍋島らしい。
冷たい夜の空気の中、車を走らせる。けれど、胸の奥には不思議と柔らかい熱が灯っていた。
玄関の鍵を開ける前から、すでにおいしそうな匂いが漂っていた。
扉を開けると、そこはバターの甘い香りと、じっくりと煮込まれたソースの香りで満たされていた。何かが時間をかけて火を通されてきたような、優しくて丸い香りだ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
キッチンに立つ鍋島の背中から、当たり前のように返ってくるその声。それだけで、杏里の胸の奥がまた少しだけ解けていく。
(……「おかえり」って言ってもらえるのが、こんなに嬉しいなんて)
足元では、ハヤブサが待ちきれない様子で寄ってきた。小さな体を杏里の足首にすりすりと押しつけ、短くにゃあと鳴く。
「ただいま、ハヤブサ。お出迎えありがとう」
しゃがみ込んで頭を撫でると、ハヤブサは満足そうに目を細めた。その様子を見て、鍋島がキッチンから振り返る。
「ちゃんと待ってたみたいですね。俺の時と、明らかに反応が違う気がするなぁ」
「気のせいじゃないですか?」
「だといいんですけど」
そんなやり取りをしながら、杏里はケーキの箱をテーブルに置いた。
鍋島はエプロン姿のまま、真剣な顔で鍋の火加減を見ている。キッチン越しの横顔は落ち着いているが、どこか少しだけ緊張しているようにも見えた。
「……ビーフシチュー。レシピ通りに作ってみたんですけど、お肉、ちゃんと柔らかくなってますかね」
「作った本人が不安にならないでくださいよ」
「作り慣れている料理じゃないので。……でも、匂いだけは自信あります」
「はい。すっごくいい匂いです」
テーブルには、こんがりと焼き色のついたミートパイも並んでいた。それだけで、食卓が一気にクリスマスらしくなる。
杏里はコートを脱いで手を洗い、席についた。
「いただきます」
声を合わせ、杏里はまずビーフシチューをひと口すくった。
熱と一緒に、濃厚で柔らかな味が舌の上で広がる。牛肉は驚くほどほろほろと崩れ、深いコクのあるソースと完璧に溶け合った。
「……ちゃんと柔らかくなってます」
杏里が顔を上げると、鍋島が少しだけホッとしたように息をついた。
「っていうか、これ、すごく美味しいです……!」
「よかった」
「本当に。……ちゃんと、クリスマスの味がします」
「クリスマスの味、ですか。だいぶ抽象的ですね」
「でも、そんな感じなんです」
ミートパイにナイフを入れると、中から熱い湯気が立ち上がった。サクサクのパイ生地と、旨味の詰まった挽肉。それがビーフシチューのソースによく合う。
ちゃんと美味しい。
そして、あたたかい。
その事実が、どうしようもなく杏里の胸に沁みた。
そして、ふいに思い出したのだ。
おばあちゃんと過ごしたクリスマス。小さな頃、毎年のように出てきたビーフシチュー。台所に立つ丸まった背中。窓の外の冷たい夜。
目の前にあるものは少し違うはずなのに、そこには確かに、同じ温度のあたたかさがあった。
その瞬間、胸の奥にたまっていたものが、不意にせきを切った。
「あ……」
自分でも気づかないうちに、一筋の涙が頬を伝った。
鍋島が、パッと目を見開く。
「えっ……!?」
慌てて顔を伏せたが、次から次へと涙がこぼれて止まらない。
「ちょ、ちょっと待ってください! 泣くほど旨かったんですか!?」
「違います……!」
思わず否定したが、涙は止まらない。鍋島はうろたえながら立ち上がり、大急ぎでティッシュの箱を杏里の前に置いた。
「はい、とりあえず! え、どうしよう、俺どうしたらいいんですか」
あまりの狼狽ぶりに、杏里は涙を拭いながら小さく笑ってしまった。
「ちがうんです……。その、すごく嬉しくて」
鍋島が、静かに杏里を見つめる。
「あったかくて……懐かしくて。おばあちゃんのこと、思い出しちゃって」
鍋島の表情から焦りが消え、穏やかな、優しいものに変わった。
「……そっか」
「作ってくれて、本当にありがとうございます」
目元を赤くしながら伝えると、鍋島は少し照れくさそうに、けれど深く頷いた。
「それなら……作ってよかったです」
「……泣くほど美味しいとかじゃないですからね、本当に」
「そこ、念押ししなくていいですよ。まあ、美味しいなら万々歳です」
鍋島はそれ以上、深くは踏み込んでこなかった。その距離感が、今はとてもありがたかった。
足元では、ハヤブサが何も分かっていない顔で杏里の脚に体を寄せている。
「ハヤブサ、いい匂いするでしょ?」
「たぶん、肉の匂いしか分かってないですよ」
「そ、そうですよね……!」
涙のあとの笑い声は少し掠れていたけれど、冷え切っていた杏里の心は、湯気の向こう側で満たされていた。
今年のクリスマスは、半額のチキンじゃない。
一人でもない。
あたたかいシチューがあって、「おかえり」と言ってくれる人がいて、寄り添ってくれる猫がいる。
杏里はもう一度、ビーフシチューを口に運んだ。
やっぱりあたたかくて、やっぱり美味しかった。
この味も、この夜の温度も、きっとこれから先ずっと、忘れることはないだろう。




